泳げないネズミ

 加害者も被害者も可哀相だ。法律で裁いて抹消してしまえばいいと短絡的には結論づけられない背景が伺われる。たった1日、自由を奪われるだけでも耐え難いのに、何十年もの監獄の中での暮らしの苦痛を想像できないはずがない。一時の逆上の代償としては大きすぎることが分からないはずがない。しかし、それでも実行してしまうのは、ここもそこも、たいして変わらないからなのだ。いや、そこへ行くことが分かっていても、ここを消すことの方がはるかに救いなのだろう。  ここでは何を持っているのか。何を持っていないのか。持つことをマスコミに煽られ、持たないことを家族に罵られ、毎日は自虐の中でしか過ぎない。落ちこぼれる構造の中に追いつめられ、落ちこぼれることを許されない。社会は寛容の顔をした不寛容だ。空腹は一線を越えれば快感に変わる。力ある者の横暴は英雄で、追いつめられた者の抵抗は犯罪だ。息詰まる空間の中で、接点を失えば、ここを抹殺してしまいたいだろう。抹殺こそが生きる道とは、泳げないネズミが海に逃げるようなものだ。  誰を恨めばいいのだろう。何を否定すればいいのだろう。せめて、せめて、傷つけないために、傷つかないために、自分を恨まないこと、自分を否定しないこと。そこに行ってしまえば、帰り道はないのだから。