副作用

 東京の有名中学(と言っても田舎に住んでいては初耳なのだが)に入った姉の孫がやってきた。どうも初めて会うらしい。その様な気がしなかったのは、やはり義理の兄や甥に似ていたからなのだろうか。恐らく僕の大学受験などよりよく勉強しただろうその子がどんな子か気になっていたが、会ってみて、如何にも少年の雰囲気を漂わせ、穏やかな表情をしていたので安心した。このような仕事をしていると、体の健康がまず気になる。そして心の健康も気になる。それだけで十分だと思うのは、当事者でないからなのだろうか。家族となれば、健康も手に入れて学力も付けてと、望みは留まるところを知らないだろう。 幼い彼が教えてくれたのだが、彼が通っていた幼稚園ではサッカーとか漢文をやっていたそうだ。どちらも耳を疑うが、商業主義の臭いがして、不自然きわまりない。それを目的で入ったのではないらしいから安心したし、漢文は全部忘れたと言っていたからほっとするが、都会だから許されるというものではないだろう。それらの営業方針が親から支持されるのは何故だろう。何を親たちは子供に期待して何を競わせているのだろう。  いつの時代から子供がこんなに沢山の知識を詰め込まされるようになったのか知らないが、その子らの将来が徐々に解明されつつある。薬と同じだ。開発された薬は様々な実験、検査を経て許可され人間に投与されるが、長年飲み続けたときの副作用は、必ずしも予想通りとは行かない。予期せぬ事も時間と共に現れてくる。子供達に過度に施した教育という名の劇薬が、もうすでに副作用を現しているのではないだろうか。予期せぬ出来事は色々な姿を借りて現れてくる。よかれと思い開発された薬が凶器となって向かって来るのは時間に比例する。実験室で石油から出来た薬より、山野に茂り、田畑で育てられた生薬の方が自然だとは感じないだろうか。地味ではあるが、着実に大地に根を下ろしている姿は、頼もしい。ゆるゆると流れる時間に育てられた子供も又頼もしい。結果を早急に求められないゆるゆるが育む活力こそ頼もしい。