悲鳴

 たまにすれ違う人の服装が、いっぺんに軽く華やかになったように感じた。気温の上昇は人々を戸外に誘うが、嘗て繁栄していた小都市の商店街は、休日の稼ぎ時でも多くの店がシャッターを下ろしていて、営業している店も人影はない。幼い頃はその街へ行くこと自体が楽しみだった。今ならあっという間に車で行けるところだが、当時はすし詰めのバスに揺られ、体力を消耗してまで行きたい所だった。大人になり牛窓に帰り、薬局を継いだ頃は、うらやましい立地という観点でその街のことを見ていた。  今や全国至る所の商店街が同様の憂き目にあっているのだろ。元々、父の代から商店街などないところで薬局をやっているので、町並みの恩恵を受けたことがない。自分の力で生きていくしかなかったので、この優柔不断の僕でも自分を律することが出来た。立地の良いところの人達が薬局経営を辞めていく中で、僕はしぶとく生き残っている。こんなに人口の少ないところでやれるのかと心配してくれる人もいるが、出ていくものを制御すれば何とかなる。無理をして手に入れようとしたら、より大切なものを多く失う。  今日は車がなかったので、あてもなく歩いてみた。季節が運ぶものは暖かさだけではなく、木の芽立ちに体調を崩す人達の悲鳴だ。冬眠から冷めるこの時期は肝の働きが活発になって自律神経を混乱させる。この数日何人もの悲鳴を聞いている。春は空を明るくし、人々も、草花も、鳥の声さえも生き返らせるが、脱いだ衣1枚分の不調を説明できないもどかしさの中で、心のシャッターを降ろしてしまう人がいる。  僕は帰りを急いだ。