構造式

 まさにこの感覚こそが薬学生としての躓きの始まりだった。 今日、薬剤師会の薬物乱用に関する講演会があった。講師は岡大医歯薬研究所の教授だった。薬物乱用の講演だから、麻薬とかドラッグについての社会的な状況などが聞けるのだろうと思って参加したが、予想とは全く異なっていた。冒頭から、薬物代謝(薬が体内で何によってどの様に変化し、役目を果たした後体外に排出するか)についての話で、構造式のオンパレードだった。俗に言う亀の甲の連続で、正直全く分からなかった。時折聞いたことのある言葉が出てくるが、ネイティブの英語よりも分からない。2時間、構造式のシャワーの中で、睡魔と戦いながら、頑張って聞いている人達を眺めていた。同じ薬剤師(教授も薬剤師)でもこれだけ違うのかと、我ながら情けなくなる。恐らく教授と年齢はあまり違わないのではと思えたから。向こうがはげて、こちらが白髪くらいの差しかない。  教授と僕の当時の受験勉強のレベルは恐らくそんなに違いはないだろう。好きではなかったが、どの科もまんべんなく点数はとれていた。いわゆる偏差値はあまり変わらなかっただろう。ところが決定的な違いは大学に入学してすぐやって来る。僕は、薬剤師は病気を治すものと父を見ていて勝手に思いこんでいたから、薬大が化学者を育てる学校だと最初の授業で分かって、「こりゃ、だめだ」とすぐにさじを投げた。そこで一からやり直すかどうかの判断をすればよかったのかもしれないが、勉強嫌いの僕が、受験生に戻る選択肢はなかった。恐らく、今日講演された教授は、化学式大好き人間で試験管に触っていたら幸せ一杯の人なのだろう。受験の為に化学の問題をいやいや解いていた程度の人間が、その道で努力してもなかなか成果は現れない。構造式を見ただけでもうブロッキングを起こしている。良く卒業できたものだと今更不思議でかなわない。人生は、しがみついて頑張るほど長くない。諦めるのと、転向は似ているが違う。  あれから30年も経っているのに、やはり僕には構造式は理解できなかった。何ら知識は進歩していなかった。ただ一つの救いは、漢方というものに巡り会って、「治す」ってことに関われるようになったことだ。あのまま薬剤師としての自分を否定したまま生きていたら、道さえ間違わなければ努力は報われるって事に気がつかなかっただろう。だからこれからの若い人に言いたいのだ。道を選べと。好きで頑張れる道を。嫌いでは頑張れないし、努力が空回りする。