懸念

 正直、あまり見たくない光景だった。牛窓が嘗て経験がないくらいの高波に襲われた台風以来だから数年その女性を見ていないことになる。平屋の家に夫婦で住んでいて、天井近く海水に浸かったという話だから、てっきり家を諦めてお子さんの所にでも行っているのだろうと思っていた。ところが今日の昼前、薬局の前の道路を、前のめりになりながら小股で歩いているその女性を見かけた。まるでパーキンソン病の人の歩き方に似ていた。髪は真っ白で、顔は無表情だった。嘗ては、町のために色々な役を引き受けて一生懸命やっていた。決して出しゃばる人ではないから、頼まれれば断れなかったのだろう。良く笑い、時には照れながら住民のために尽くしていた。  あれから僅か数年で、こんなにも老けるのだろうか。まだ嘗てのように充分自転車で飛び回り、知恵と手間を町民のために役立てられる人だった。災害の後遺症か、病気のせいか、はたまた単純な老化か分からないが、一気の老け込み様は似つかわしくなく勲章としては寂し過ぎる。生きることは単純に心臓の鼓動を繰り返すことではない。社会の歯車になってエネルギーを次の歯に伝えることだ。与え与えられ、大切にし大切にされることだ。与え、大切にしてきたあの女性が、今、与えられ大切にされているのか気になる。そんな懸念を持たされる姿だった。