日が暮れてから、岡山までを往復した。いつもならバイパスを高速で走り市内にはいるのだが、今日は県道を走り、それも助手席に陣取った。毎週のように岡山へは出ていくが道すがら視線は、前を走る車、中央分離帯、信号などほとんど安全に走るためだけのものに向けられていることに今夜気がついた。いつもは、ほとんど何も見ていないのだ。景色も建物も。勿論それはとても重要なことで、運転しながら景色に見とれていれば人を傷つけてしまう。  助手席から眺めると、それも日が暮れてから眺めると、今まで見えなかったものが沢山見えた。白昼なら見えすぎて、見なければならないものが多すぎて、近くのものしか見ていないが、暗闇の中には昼間では見えないもの達が何層にもなって存在を現す。あの向こうにもあの向こうにもと、灯りがともっている。一枚の暗闇の中に奥行きが生まれる。  白昼、無機質な建築物だと思っていたものの中に、多くの人がいて働いているのもいくつか見えた。人の気配すら感じなかった建物の中が、灯りですべて透けて見えて、温もりの色をしていた。体温があり、呼吸があった。  闇はすべてを消し去るものではない。すべてが消えたものでもない。闇だから見えたもの、闇だから見えるものもたくさんある。心の闇も、本当は多くの生き物がうごめき、叫び声をあげ、救出を待っているのだ。ほんの小さなろうそくの火でも良いから点れば、誰かが見つけてくれるだろうに。風が吹いて木々が擦れ合って発火しても良い。雷が落ちて発火しても良い。切れた電線から発火しても良い。点れば誰かが見つけてくれる。  闇は闇を隠すほど闇ではない。