十字架

人は、大なり小なり十字架を背負って生きている。十字架は貧困かもしれないし病気かもしれない。それとも人、それも身近にいる妻や夫、子供や、孫かもしれない。昔、十字架はもっとも卑しめられた、処刑だった。木に縛り付けられた手が腐り、出血し、数日かかって死んだそうだ。それが今では救いの象徴になっている。何故なら人は十字架の前でへりくだり、謙遜になれるからだ。  もっとも不幸なのは、ひょっとしたら、金も名誉も家族さえも優秀で非の打ち所のない人かもしれない。いくつもの十字架を背負っている人ではなく、周りに十字架の原因がなく、、1つの十字架もを背負わなくてもよい人かもしれない。謙遜を学ぶことが出来ない人は、圧倒的な慈悲の前にへりくだることが出来ないから、自分の非力や無知を認めて、額づくことが出来ない。これに勝る不幸は見あたらない。その種の人間を最近はことさらよく見、よく聞く。