人は富みや権力を手に入れると、大きな門を作りたいらしい。僕のような小さな町でも、旧家と言われる家には立派な門がある。又は残っている。日本の城やパリの凱旋門などはその最たるものなのかもしれない。当時の庶民なら、その下をくぐる時には嫌でも己の小ささを味わったろう。もっとも、それが権力者達の狙いなのだろうが。 いっぱい物を持って、一杯肩書を持って、いっぱい財産を持って通りぬけれる門の向こうに何があると言うのだろう。虚栄に満ちた世界に何を求めるのだろう。僕らには門はいらない。身体一つがやっと入る狭い戸口があればいい。狭い戸口の向こうに、僕らが求めるものがあるなら、そこを通る時はなるべく身軽なのがいい。お金も財産も必要なだけでいい。頭を思いっきり下げれるように謙遜なのがいい。通りぬけるのは自分だけでないように他人を大切に出来る方がいい。  僕らは、いつか枯れて大地に吸収されて消えていく花と何ら変わりはない。なのに、これでもか、これでもかと所有する。満たされることのない欲望が、地球の裏側で飢餓を増産する。  今日、娘と夫を連れて教会の門をくぐった女性を見た。涙を流していた。あれは悲しみの涙ではなかった。何かから解放された涙のように見えた。人間は悲しくてもうれしくても涙を流せるのだ。不思議な動物だ。