Kへの手紙

 僕が高校2年生のある日を境に、教室で人の前で本が読めなくなったのはご存知ですか。以来僕は人前恐怖症になってしまいました。とくに人の前で声を出すことが困難になってしまいました。それを克服する為に、人の前で歌を歌うようになったのですが、それは出来るようになりました。学生の頃、何百人の前でも2時間くらいは歌いつづけられました。又最近では時々漢方の講演会も頼まれますが、何時間でも楽しく喋れます。詳細は僕のホームページに書いていると思います。  ところが、肝心の人前で本を読めないと言うのが果たして治っているかどうかは、実は分からなかったのです。社会人になってそのような機会がなかったからです。トラウマとして確実に残っているから、本を読むのは嫌で嫌でたまらないのは分かるのですが、ひょっとしたら読めるのではないか、いやいや、又声が震えて恥をかくのではないかと不安になってしまうのです。ところがその判断が出来るチャンスが突然やってきたのです。  僕は昨年のクリスマスに洗礼を受けてクリスチャンになりました。カトリックでは毎週のミサの時に必ず聖書の一部を朗読します。みんなの前に立ち、数分の朗読をします。洗礼の夜突然僕にそのお鉢が回ってきたのです。本当に突然だったのですが、僕の脳裏に浮かんだのは、又声が震えるのではないかという過去のトラウマです。しかし、僕はなにも断わらないように心がけているので、壇上で読みました。手には汗を握って妙に低い声になってしまいましたが、なんとか読み終えれました。  実は今日2回目のそのような機会がありました。12月に、なんとかやり遂げたのだから、今回は落ちついて上手な朗読をしてみたいと思いました。読み始めて自分がかなり落ち着いているのが分かりました。途中からは感情を込めて上手に読むように心がけました。思えば、40年目の快挙です。心の中の長年の重りがやっと除かれたような気分でした。心も体もとても軽くなりました。心の中に閉じ込めていた苦しみからやっと開放されたようなものです。来週朗読の役が当っている人が都合で読めないそうです。僕は帰りがけにその役を買って出ました。出来れば毎週でも人の前で読みたいです。心が微動だにしなくて読めるようになる日まで。嘗ての僕は、独唱、弁論大会、怖いものはありませんでした。その当時にもどれるかと思うと、嬉しくて仕方ありません。  僕ははしゃいでいるのではありません。僕のトラウマのせいで、無意識の内に自分で行動を制限し、そのせいで人の役に立てれるような機会を失っていたのではないかと恐れているのです。このトラウマさえなければ僕はもっと人の役に立てれているのではないかと思ってしまうのです。ただこの青春の落とし穴が、僕にずいぶんマイナスのことばかり与えたかというと、実はそうではないのです。僕がこのせいで失ったものなど実はほとんどないのです。それどころか、僕は謙遜に生きると言うことをこのトラブルから教えられました。そして、40年越しに解決できたことで、喜びは悲しみの後にしか来ないことも分かったし、悲しみがあるからこそ喜びが感じられることも学びました。  毎日、生きることがいやだと感じて1週間を過ごしたのですね。それだからこそ、いつかきっとあなたも僕と同じように、生きることがどれだけ価値を持ち、素晴らしいことかわかると思いました。苦しむことは不幸ではありませんよ。