丁度僕が薬局にいなかったときに持って来られた処方箋を、薬剤師が調剤し、患者さんに説明していた。2階から降りた僕はその計算を頼まれて、パソコンに向かって作業を始めた。患者の氏名を入力し、生年月日を入力した時点で、その患者さんが僕の同級生だとわかった。中学校以来会ってはいないが、数年前に牛窓に帰ってきて漁師をしていると聞いていた。  その気になってみれば、ハスキーな声はなんとなく記憶に残っている声と一致する。さすがに喋り方までは記憶をたどれなかったが、声は記憶と次第に一致してきた。僕は彼を見てみたいと思った。丁度40年ぶりに合うことになるのだが、果たして変っているのか、変っていないのか非常に興味が持った。当時僕は3年間毎日のように彼らと2kmの距離を歩いて中学校に通っていた。成績を順番に並べて輪にすると、僕らは隣り合うような関係だったが、僕は彼らといるととても心が落ち着いていた。何故か僕は落ちこぼれや不良と仲がよかった。  僕は声をかけながら薬局に出て行った。果たして面影は・・・全くない。まだ成長期の頃を最後に見ただけなので、完成し、その後老化し始めた風貌に面影は、全く宿っていなかった。道ですれ違うどころか、にらめっこをするはめになっても名前を名乗らない限り分からないだろう。そこには全く別人が立っているのだ。人格すら途絶えているのではないかと思うほどだった。  生物的に言えばすでに退行期真っ只中の僕らだが、不思議と心だけは、自分が歩いてきたどの時代にも属しているように思える。今は今でないのだ。今が30年前でもあるのだ。今はいつも変化していて今でありつづけることがないのだ。面影さえ消してしまうくらい長い歳月は、今を食ってなお膨張している。