1週間前にも同じ道を通っているのだが、至るところに桜の木があるのを知らなかった。 例えば土手に沿って、或いは山の中腹に、或いは農家の庭先に。それぞれの場所の原風景を背に、突然に現れた花たちは華やかに咲き存在を誇示していた。  もしあの花たちが開花しなければ、存在は誰にも認められていないだろう。白やピンクに、それも大量に咲き誇ることにより存在を認識してもらえた。大地にしっかりと根を張り、風雪に耐え、害虫にも耐えているが、そのことに対する評価はない。わずか1週間の晴れ舞台を絢爛豪華ととるか、哀れととるか僕に興味はない。僕には花を咲かせた時だけ認知し、ことさらもてはやす世の風潮が不自然に感じられて仕方ない。それは、一植物のことだけに終わらなくて、人間社会の評価も同じレベルの事をしている様に思えて仕方ないからだ。寡黙に懸命に日々の生活の糧を稼いでいる人達に、賞賛の声は与えられない。時流に乗り、莫大な富を得た人に対する羨望と賞賛の声は、マスコミを通して増幅される。 今日、教会で二人のかたの泣いている姿を見た。ミサの途中でそっと涙を拭いていた。男性と女性、どちらも60才代だと思われる。それぞれに何があったのか知らない。もう色々なことを達観して、心穏やかに暮らすことが出来る年代だと思うのだが、涙をこらえられないくらいの苦しみやか悲しみを抱えているのだろう。恐らく、二人はもう桜の花を咲かせることは出来ない。出来ることはひたすら懸命に生きることだけだ。咲き誇った花の蔭には、多くの歳月と労力をかけた営みがある。根も無い幹も無いでは花は咲かない。、ほとんどの人は、目に見えないところで懸命に世の中を支えている極普通の人たちなのだ。いつもそこにいる、そこにいた人たちなのだ。