詳しくは知らないが、キリストは馬小屋の枯草の上か、かいば桶の中で生まれた。そして死んだのは十字架の上だ。短い人生の間で、おそらく所有したものなど何もなかったのではないかと思う。そんな人間をして、2000年の間、人々は「神の子」、或いは「主」などと呼び尊敬している。これだけ多くの人に、これだけ長い間尊敬を得ている人は他に余りいないのではないかと思う。その理由は、人々の犯した罪の罰を一身に受けて、神に許しを乞うたからだろう。自分を犠牲にして、人々の罪からの解放を約束したのだ。  翻って現代の人間模様を見てみよう。人々の多くは、特に人の上に立っている者、立とうとしている者の多くは欲望の塊ではないか。自分が神様にでもなっているのではないかと思うような人間もいる。多くのお金を集め、御殿に住み、命のぎりぎり、生活のぎりぎりの線で労働者をこき使い、使い捨てにする。彼らには、思いやる心を育むことが出来なかった少年時代がきっと存在しているにちがいない。  ジングルベルの音に乗って、浪費を煽る商業主義が闊歩する。お金を稼ぐその集団の構成員にだって、子や孫もいるだろうに。自分たちが煽った商業主義や不道徳が、もう自分の大切な身内にまで浸透している。自分の首をしめていることに気がつかないお人よしたちに、「主」の恵はない。