監獄

 今日、薬を出し終えて雑談している時に、ある年配の男性から「あんたぐらいが1番いい年だ」と言われた。仕事がよく出来ると言う意味なのだろうか。僕は今の年令が1番良いとは思わない。2番目とも思わないし、3番目とも思わない。その時々で精一杯で、余力も余裕もなかったから、思い出す出来事さえおぼつかない。これだけ生きてきたのに想い出と言うほどのものが極端に少ない自分に気がつく。僕は、いや、僕の世代の人も、僕より上の世代の人も、本当は世間で思われるよりも実はもっと前向きなのではないかと思う。想い出を大切に後ろ向きに生きる人なんかほとんどいないのではないかと思う。年を重ねることにより失う能力は確かにある。しかし、失う能力よりも蓄積してきた知識の方が勝るのではないか。毎日色々な人を応対して教えられることが沢山ある。それぞれの人に、若さとかIT技術とかでは置換できない蓄積がある。  「あんたぐらいが1番いい年」と言ったその人は、僕ぐらいの年令で多くを得過ぎていたのかもしれない。個人の年表を一般論で語ったところに、哀愁を感じる。外気と同じ気温の人気のない部屋に帰っていくその人にはずっと昔、1番よい年があったのだ。  僕が住んでいたアパートは、まるで監獄のような部屋だった。近所でも監獄と言われていた。小さな洗面台が1つ。3畳の部屋。扉は鉄で出来ていて、冬は凍っていた。まるで外で寝ているようだった。壁ひとつが言い訳のようだった。幸せだったのか、不幸だったのか分からない。何の時代だったのか、どんな時代だったのか。僕の歩いた道に足跡は残らない。振り返ろうにも何も残っていないのだ。溜息だけが監獄の壁に証しを残している。  その人は、あの年令で、僕がすごした監獄のような生活を強いられている。死ぬまで1番よい年を決められないのが、幸せだと思うのだが、1番いい年から30年も生きてきているその人に、かける言葉もなかった。