病的賭博

 今日届いた副作用情報を見ていて、思わず苦笑いした。ある薬を投与されたパーキンソン病患者さんで起こった副作用の報告だ。なんと「病的賭博」の副作用が出ることがあるらしい。病的賭博の定義も載っていて「持続的に繰り返される賭博。貧困になる、家族関係が損なわれる、そして個人的な生活が崩壊するなどの、不利な社会的な結果を招くにもかかわらず、持続し、しばしば増強する」  なんと、19歳から25歳までの僕そのものではないか。一言一句違いない。これ以外にあの頃の僕を表わす言葉はない。僕はお金がなかったからパチンコしかしたことはないが、毎日労働者が働いているくらいの時間をパチンコ屋の中で過ごした。金はないのに、タバコ代とコーヒー代とパチンコ代はあった。中学を卒業してすぐ牛窓を出たから親は勉強していると思っていたかもしれない。仕送りが、パチンコ代に変わっているとは思わなかったろう。さすがに大学で留年してから仕送りは断わったが、自由になった分余計のめり込んだ。家族関係は離れていたから壊れないが、友人関係は壊れた。落ちこぼればっかりが群れをなすようになった。その中にいるときだけがまっとうなプレッシャーから逃れられていた。個人的な生活は完全に崩壊していた。講義が終わるころ大学に行き、安い学食を食べ、柳ヶ瀬にパチンコに行った。最終までパチンコのバネをはじき、冷たいアパートにバスで帰った。不利な社会的な結果も招きすぎるくらい招いていた。落ちこぼれの烙印は心地よくて、その生活から脱出を図ろうとすればするほど、足は柳ヶ瀬に向かった。  幼い時から、何でも器用に出来た。勉強も運動も音楽も。ただ何かに秀でることはなかった。なりたい職業もなかった。目標もなく受験し、1ヶ月もしないうちに坂道を転がり始めた。止まらない転落に毎晩うなされた。居直ることが唯一の慰めだった。手のひらを返すように、落ちこぼれた。自由を手にして不自由になった。自分からは逃げられなかった。6年間逃げつづけた。壊しつづけた6年間だった。何も作らなかった。何も生産しなかった。誰の役にも立たなかった。おそらく汚い身なりの僕を見て不愉快に思う人は沢山いただろう。雑踏の中の孤独は好きだった。パチンコ屋の騒音の中で一人は好きだった。何も考えないで何もかも考えていた。強い人がいつも強くて、弱い人がいつも弱い、そんな理不尽を怒っていた。哀しみに涙をすることも覚えた。たわいないお喋りに一瞬を救われることも覚えた。潔癖に自己を否定することも覚えた。生産しないことが空虚なことも覚えた。  僕はパチンコ屋の中でどこにでもいるつまらない人間になった。最後の100円玉をイチかバチかでパチンコに注ぎこみ、真冬に10kmの道を歩いて帰ったことがある。一片の理性さえ失っていたのだ。アパートに着いたときは口が凍えていて喋れなかった。凍るような星の輝きの下で僕はどこにでもいるつまらない人間になった。