輝き

 世界選手権のバレーの試合をテレビで見た。選手達が一番輝いている瞬間なのだろう。どの選手も見ていて美しい。彼女たちを賞賛する言葉でもっとも適しているのを見つけることはできないが、心を打つのはそのひたむきさなのかもしれない。ボールを自分のコートの床に落とされたら終わりなのだ。その為にどれだけの時間を、いや年数を費やして懸命の努力をして来たのだろう。来る日も来る日も打ちつけられるボールを顔面に当てて技術を向上させて来たに違いない。  その選手達をバラエティー番組に出させたり、ひ弱なタレントに応援させたりと、やはりここでもマスコミの営業の弊害が出ていて、ひたむきさがお金に替えられている。彼女たちが輝いているのは、おそらくバレーボールに関してだけだ。その他の分野では極普通の女性だし、劣っているところも数え切れないくらい持っているだろう。タレントやスポーツ選手をなにも神聖視する必要はない。なにか1つに秀でている(?)だけで後は何ら変わらないか劣っている。僕ら庶民も同じだ。誰も一つや二つ輝いているものを持っている。多くの欠点を補って余りあるほどとは行かないのが庶民だが、それでも周りの人を変えられるくらいの輝きは誰もが持っている。庶民の小さな輝きにテレビカメラは来ない、新聞記者も来ない。しかし、その輝きは周囲の空気を動かし、それが次から次へと伝播していく。庶民はスポットライトに照らされることはない。しかし、照らされなくても輝ける光を誰もが自分の中に持っている。ひたむきに打ち込むものさへ持っていれば、ひたむきに守るものさへ持っていれば。