運動会

 中学校から運動会の案内がきた。昨年、岡山県で国体があったせいで、秋に行われていたものが春になり、今年も春に行われるらしい。春に行うことに何か都合のよいことがあるのだろうか。  その案内を見ていて遥か何10年前のことを思い出した。気持ちの上ではほんの数年前のことのようにも思われる。がむしゃらにその日その日を生きてきたので過去のことなどほとんど思い出すこともなかったけれど、最近は少しずつ昔のことが頭に浮かんだりする。  中学3年生の時、僕はクラスの男子を扇動して、リレーで走らせなかった。走ることが得意な子も何故か賛同してくれて、懸命に走る他クラスの生徒を尻目に、悠然と歩いた。なぜかしら僕は運動会にずっと違和感を覚えていた。短距離を走ることほどもって生まれた才能のまま勝負がつくことも珍しい。長距離ならいざ知らず、短距離は鍛え様がない。もって生まれた才能がある人がより速く走ることが出来るように鍛えることは可能だが、ほとんどの人間にとっては単なる遺伝子の競い合いでしかない。  才能を偶然もって生まれてこなかった子が、才能を偶然もって生まれた子に晴れ舞台でひきたて役になることが耐えられなかった。才能を一杯授かった人は、そうでない人を一杯助けてあげなければならない。それが当世では逆で、才能がたくさん備わった人が備わっていない人から奪い取る。お金や、自尊心や、時間や、場所までも。  僕の価値観は、あの頃とほとんど変わっていない。この町の景色のように。