カボチャの苗

 母の家は、勿論僕が生まれ育った家だが、一昨年の台風で浸水し、老朽化に追い討ちがかかり、昨年一部を残して解体した。跡地は結構広くて、遊ばせていたのだが、母が何か野菜でも作れたらと鍬で耕し始めた。商店街の中にあり、100年以上建物を支えていた土地だから、それも海とは20mくらいしか離れていないので、塩分もかなり含んでいるだろうから、常識では畑になるなどとは考えられない。おまけに増築した数10年前に埋めたものらしいレンガや石ころが沢山埋まっていて、母の拙いくわさばきをなおさら下手にする。  悪戦苦闘している母の姿を見かねて、今朝あるお百姓さんがわざわざ畑道具を一式持ってきてくださり、機械で耕し、堆肥をまいてくださった。母より数歳若いが、かなりの年配の方だ。奥さんの調子が悪く僕のところに薬を取りに来る。人の世話、それもあまりにも非効率な素人の遊びみたいなものに、これだけの時間と労働を提供してくれる親切の源は何なのだろう。  人から奪い取ることばかりに熱心な輩がひときわ増えた今、いとも自然に、分かち合うことをやってのけてしまう老人の無欲さが神々しく思える。老人は、車が無断で置かれることを心配して、道路との境に溝を掘ってくれた。そして作業が終わり帰ろうとした老人がその溝を見て、ゆがんでいることに気がつくと又鍬でまっすぐに整えてくれた。  母は今日、夕方明るいうちに勇んで帰っていった。早く帰って、カボチャを植えたいのだそうだ。そのカボチャの苗さえ近所の人がくれたものなのだ。老いた母は一人で住む事を選択している。兄も僕も同じ町に住んでいるのだが、一緒に住む事を欲してはいない。近所の心優しい人達と長年分かち合った共同体を築いているのだ。それは家族よりも心地よいものなのだろう。田舎の人と人のつながりを量る単位を誰も知らない。