二重のおばあさん

 一見して二重のおばあさん、いやいや、スーパーの制服を着てモップで床を拭いているから、見かけほどは歳を取っていないのかもしれない。日曜日の午後、多くの買い物客は、物と引き換えに、ストレスをおいていく。自分の子や孫と同年代の者達が落としたストレスを、モップで集めてまわる。年令から推測して、戦争時代に育ち、戦後の貧しい時代に子育てし、高度成長時代に子供に出ていかれ、バブルがはじけてから子供に捨てられた、この国のどこにでもある話しを連想させる。  一体いつが変換点になったのだろう。稼ぐ以上に堂々と使い始めたのは。必要のないものを一杯集めて、必要なものを見失っている。お金で買えるつまらないものを求めて、お金で買えない大切なものを失っている。僕の財布には1枚か2枚の千円札が入っている。同じ紙幣が数ヶ月持つ。買いたいものがないからだ。1つ物を手にするたびに、1つ動物的な要素を失った。  免疫学で有名な学者が、人類は後200年しかもたないのではないかと危惧していた。地球にとっての唯一の害は人間だ。身の回りにあるもので本当に必要なものは、一握りのものでしかない。1年間使わなかったものは、一生使わないだろう。使われずに捨てるものを地球の資源を使って作っている。その無駄なものを作るために雇用は存在し、その存在が又架空の需要を作り出す。荒れた水田や畑が放置されている。老人が泣く泣く鍬を置いたが、スーパーの中を闊歩する若い人達に、供給された作物(命の源)に、感謝の気持ちはサラサラない。車はなくても生きて行けるが、野菜や魚がなくては生きては行けない。  僕には2重になって長いモップを操っていた老婆が、幼い頃畑で見つづけていた祖母の姿に重なって辛かった。