フィリピンの若者達

 「彼女は、今病気で、仕事も出来ないでいます。彼女の為に祈って下さい」と神父様が言われた。確かに彼女は一人、教会のお御堂のそばにある畳の部屋からミサに預かっていた。大きなマスクをしていた。フィリピンから出稼ぎに来ている彼女にとっては、仕事を休むことは大きなデメリットなのだ。彼女の仲間もとても寒さに敏感で、風邪を引くことをかなり神経質に警戒する。  ミサが終わってから、僕は彼女のところに行った。近づいて見ると、彼女の顔には一杯湿疹が出ていた。僕は英語がしゃべれないので、彼女の顔を指差して、「その湿疹はどうしたの」と尋ねた。彼女は、日本語はまだ分からないはずなのだが「水疱瘡」と答えた。「僕はやっているからOK」とこれまた生粋の日本語でしゃべたら、彼女は笑顔を作った。その後公園で唄を歌ったのだが、彼女を含めて10人近くのフィリピンの人が集まった。インドの男性も一人いた。神父様は韓国の方だから、ギターを弾く若い青年(僕の甥)と僕だけが日本人なのだ。年令は僕だけ突出していて、神父様を含めて僕の子供に近い年令の人ばっかりだった。何のいきさつかその場に僕がいるのだが今こうして文章にしてみれば、奇妙な光景だ。  皆で英語の歌と、タガログ語の唄を歌った。皆でと言うより、僕以外と言った方が正確だろう。僕は訳も分からず、ローマ字読みしていただけだ。そんな僕を気遣って、水疱瘡の女性とその友達が、唄に合わせて楽譜の上を指でなぞってくれた。僕はまるで老人のように、その好意に甘えて口を動かしていた。タガログ語の唄では、それを英語に訳してくれた。残念ながら英語では理解できないので困っていたら、神父様が日本語に訳してくれた。彼らは僕が帰るときにも何回も挨拶をしてくれて、微笑を絶やさなかった。僕は今まで、英語を喋らなければならない環境にはなかったので、そのことに関して不自由はなかったが、こんな機会に遭遇すると、不勉強が悔まれる。今回の経験でなんとなく分かったことは、仮に英語ばっかりの中に入っていけば、それなりに理解出来るようになるのではないかと言うことだ。英語のシャワーの中で暮らせば僕だって理解できるのではないかと思った。  若い彼ら彼女らは、僕を母国で待ってくれている父親と重ねたのか、とても親切に接してくれた。過敏性腸症候群を改善しに訪ねてきてくれる若い人達と同じように、とても優しい雰囲気を僕の回りに漂わせてくれる。 日曜日には、無理やりにでも勉強会を探して出ていっていたが、もうそんな生活は止めた。出席してもたいした知識が得られなくなった事もあるけれど、1週間分の沈殿した心を清めて、新しい生活を始められることの方を喜びとすることにした。