希望

 80歳の大台に乗った男性が僕の目の前で目を潤ませ始めたから、その局面から逃げ出さないと僕ももらい泣きをしそうだったので、得意のギャグで乗り切った。でも、その涙は悪い出来事での涙ではなく、よい結果での涙だからもらい泣きしてもいいのだが、一応僕も当事者だから、取り乱すことは避けたい。
 2週間前に、頚椎ヘルニアで困っている主人の薬を作ってと頼まれた。奥さんの依頼だが、矢張り本人に会ってヒントをもらいたかったから来て貰った。本来なら不意に一人でやってくればいいのだが、気弱なのだろう、奥さん経由で依頼を受けた。しかし、よほど困っていたのだろう電話の後すぐにやってきた。頚椎ヘルニアは首から指先まで激痛に見舞われる。一瞬の痛みではなく継続して痛むからかなりのストレスで、行をしているようなものだ。いわば1日中歯医者に歯を削られているようなのもだ。神経が圧迫されるから激痛が続く。
 その男性も指をくわえて半年耐えていたわけではない。整形外科で手術は年齢を勘案するともう出来ないと断られ、近所の外科でロキソニンをもらって飲んでいる。少しは痛みが軽減するらしいが、ほんの少しだし効果が持続しない。1日中の激痛に耐えているから、表情は暗い。しかし、元々の実直なタイプが邪魔をして、苦痛を前面には出せれない。このまま寿命まで、激痛と共に過ごさなければならないとしたら気の毒すぎる。
 牛窓の人だから1週間分でもよかったのだが、なぜか僕は2週間分作って飲んでもらうことにした。この2週間分が幸運だった。と言うのは13日目に劇的に効果が現れたらしい。その朝目が覚めたらいつもの痛みのスイッチが入らない。首をゆっくり左右に回してみると、それこそ左右に首が回った。そして首の後ろに大きなしこりがあったのに、それが消えていた。まさに「治った」状態なのだ。
 1ヶ月前に、奥さんの長引いた咳を漢方薬で治して、奥さんが漢方薬の力を理解してくれたのだろう。ご主人も漢方薬で治らないかと相談を受けたのだが、奥さんの愛情が伝わって「治った状態」をもたらした。口には出さないが恐らく絶望的な痛みに苦しんでいたのだと思う。老いることは本当につらい。治らない不調が洪水のように押し寄せてくる。縁あって、あの激痛から解放して上げる事が出来たが、日本中には現代医学に見放されたり、小手先の慰めで我慢を強いられて暮らしている人がいっぱいいる。長生きが賞賛されるが、75歳過ぎたら苦行のような人生が待ち受けている。よほど守るべきものを持っている人は別だが、多くの庶民には希望も守るものもない。痛みとともに何年生きて行かなければならないのだろう。
 恐らくその男性も僕と同じようなことを考えていたに違いない。だから劇的に痛みから解放され、次に薬を僕に作るように言った時に、こみ上げるものがあったのだろう。1日中、歯医者で神経を触られているのと同等の痛みに、誰が10年もその上も耐えられよう。
 田舎の町で起きた小さな出来事だが、病気は孤独だ。その人にとっては一大事だったはずだ。毎朝目が覚めるとどこが痛いだろうかと確かめる僕自身にも、希望の症例だった。