勲章

 柔らかくて温かい可愛い手だった。  お母さんと二人で入ってきたから、久しぶりに又漢方薬でもいるのかと思ったら、卒業式の帰りにお礼を言うためだけに寄ってくれたらしい。思い当たることはなかったので何の礼かと尋ねたら、無事卒業できたことに対する礼だった。僕はとても可愛いお子さんが、それもちょっとだけ早く大人になりすぎたか、逆にいつまでも少女の純粋な心を持ち続けてしまったかの、どちらかの大いなる長所を、精神的な病気とみなされて、抗ウツ薬と安定剤を飲まされ続けていたのを止めさせただけなのだが。  最初相談に来たときは高校2年生だった。学校には時々しか行けずに、進級が難しいと言っていた。お母さんと一緒にやってきたが、ふたりがとても仲良く見えた。田舎の子なのにとてもおしゃれで、ファッション雑誌から飛び出してきたような感じで、それでいて下品ではなく、好感度抜群だった。こんなお子さんが心療内科にお世話になっているのが不思議だった。どうして学校がいやなのと尋ねたら、同級生のくだらない話についていけないと言った。仲間に入れないんですとも言った。「でも、それって病気ではないよね」と言うと、本人は勿論、お母さんも「そう思います」と答えた。それから色々な話をしたが、ますますそのお子さんの長所にひかれた。ああ、このまま大人になれば、どれだけ多くの人を心地よくさせることが出来るだろうと、寧ろ期待すらさせた。 僕は病気ではなく素晴らしい個性で、治療の対象ではないと断言し、その日から抗ウツ薬と安定剤を止めてもらった。勿論その代償として漢方薬を飲んでもらった。半年も抗ウツ薬などを飲んでいたら急に止めると反動があり怖いから。でも、元々その素質がなく、飲んでいてもさっぱり効きもせず、寧ろ飲めば飲むほど身体がだるくて朝起きれないだけだったらしいから、何の反動もなかった。結局、あっという間に彼女は元気になった。漢方薬もすぐ必要なくなった。あれ以来1年半、1度も学校を休まなかったとお母さんが教えてくれた。すでに県内の有名女子大にすべり止めで合格していて、後は関西の国立大学の発表を待つだけらしい。  僕は薬剤師として手助けしたのではない。もっと素朴に「この子、病気なの?」と思っただけなのだ。そして、こんな純粋な子が、恐らくずっと抗ウツ薬を飲む人生をなんとかくい止めたかっただけなのだ。僕の薬局が幸運にも調剤薬局ではなくフリーな薬局だから、言いたいことが言える立場にあったのが幸いした。もし僕の薬局が調剤薬局だったら、医者の出している薬を止めたらなんて口が裂けても言えないだろう。  僕は全く勉強をせずに薬剤師になった。医者も同じ様なものだと息子に言っていたら、後日「お父さんは嘘ばっかり言う」とクレームを受けた。なるほど、医者はかなり勉強しないとなれないみたいだった。命をあずかる唯一の職業として当たり前と言えば当たり前なのだが、その高い専門性の故に、命にかかわらない病気には意外と冷淡で、この子のような間違いを起こしてしまう。僕があの時越権行為のような判断をしていなかったら、きっとあの子は高校を中退して、身に覚えのない倦怠感と戦いながら引きこもっていただろう。 たまにこのようなヒットが打てるから、僕も珍しく一つのことに打ち込んで来れたのだと思う。「おめでとう」と言って握手した手が僕の裏目人生の数少ない勲章なのだ。