崇高

 「いくら頑張っても東大に入れない」。が、これは諦めがつく。与えられた才能が大きく不足しているだけでほとんどの人が条件的には同じだ。ただ、これが「人と食事が出来ない」となるとどうだろう。あらたまった席、あらたまった相手でも、ほとんどの人は食べることが出来る。そうした場面を想像しただけでも脈が乱れ、呼吸が浅くなるとしたらどうだろう。このように他人から見たらなんでもないようなことでも、越えられない壁として存在している人は歯がゆいだろう。
 僕もそうしたことを青春期には経験している。ただ、それは青春期特有のもので、多くは成人してからは持ち越さない。ところがこの女性はしっかりと持ち越している。2週間に1度会うが、。冗談が多く、話していてとても面白いのに、持ち越している壁はすこぶる高い。こんなに楽しく話すことが出来る人が、それこそ歯がゆいだろうなと、時折そらす視線が物語る。
 ところが今回、人生で何度もないような一大イベントでしっかりと食事が出来た。その日時が決まった日から心配で心配でたまらなかった・・・・はずなのに意外とそうではなく、現場でも立派?に振舞えたらしい。もう1年近く、いわゆるパニックの漢方薬を飲んでもらってきたが、立派な卒業試験が出来た。もっとも以前飲んでいた病院の安定剤は漢方薬を飲み始めて暫くして卒業できていたが、卒業試験はそんなにチャンスがあるものではない。既に小試験はいくつか受けて全て合格していたが、本試験は初めてだ。
 立派にやり遂げたのに、その安堵感よりも、本当に卒業できているかを心配するのがこの手の人たちの傾向だが、こうした成功体験を積み重ねればいずれ必ず卒業できる。大人だから苦手な現場から逃げてもいいのだが、ほとんどの人が出来ることから逃げるのは潔くない。こうした傾向の方々は潔癖だから、克服できていない自分を認めることが出来ない。そうしたときに漢方薬がある。僕が作った漢方薬でそうした貢献が出来るのは、達成感がある。
 職業柄、多くの人と話し、多くの人を見てきた。人生そんなに力んで高みを目指す必要などなかったと今は本心から思える。何を競わされていたのだろうと考える。逝く時に如何に身軽でおれるか、そうしたテーマのほうが崇高に思える。持てる不自由より、持たざる自由のほうが僕にも、少し若いその女性にも、僕の漢方薬を飲んでくれている多くの人たちにもふさわしい。