通訳

 かの国の言葉だから分からなかったが、通訳が「オトウサンが 〇〇さーんって、空を見上げて叫んでいたのが面白かった」と言ったみたいだ。その〇〇さんは、正にその通訳なのだが。
 もうすぐ3ヶ月の応援部隊でやってきた3人が帰国する。毎週のようにいろいろな所に連れて行き、和太鼓のコンサートも2度楽しんでもらえた。観光地やコンサートにただ行くのにはなんら言葉の支障はない。「行こう」「帰ろう」「トイレ」「食べよう」「疲れた」「元気」くらいの日本語か、かの国の言葉を知っていれば一緒に行動できる。だからほとんど不自由はない。3年間日本で働いている人はかなりの聞き取りは出来るが、3ヶ月の人たちにはそれは期待できない。しかし、その不自由さを何倍も打ち消してくれる喜ぶ姿に感動を覚えるのだからこれはやめられない。ただ、時々僕も感動を共有したくなることがある。ほとんどの所が僕にとっては繰り返し訪れたところだが、時に初めての場所を意図的に作る。そうした所を訪れたときには、僕も彼女達も同じ条件だ。同じように感動し、同じように言葉を発し、喜びを共有したい。そんなときにはさすがに言葉が欲しくなるのだ。身振り手振りでおよそのことは伝わるが、その高揚感までは共有できない。ある程度の意思表示をしてみるが全く伝わらないことが多い。そんなときについ出てしまうパフォーマンスが「〇〇さーん」なのだ。はるか遠くにいる通訳に届くように、まるで狼の遠吠えのように叫ぶ。それが彼女達には受けたのだろう。物事は伝わっても感情は伝わらない。言葉のもっとも言葉らしいところであり、日本語のもっとも日本語らしいところでもある。