恐縮

 腰の曲がったおじいさんが、大きなビニール袋に、白菜を3つ入れてやって来た。大きな白菜と言うのが想像できる人は田舎の人だ。本当に大きくて3つも入っていたら、持つのがたいぎになるくらいだ。長さが40cmくらい、縦横がそれぞれ25cmくらいだろうか。普通の家庭なら1個もらえば十分なのだが、百姓のプライドでそんなみみっちいことは出来ないから、大抵の農家の人は一度に沢山くれる。ただ、今なら僕ら夫婦、娘夫婦、めいの家族と丁度1つずつ分けることが出来るから3つは有り難い。  数日前に血圧計のセッティングをしてあげただけなのに、恐らくそのお礼としてくれたものだ。「白菜食べられるかな?」と一言喋っただけで帰ってしまったから、想像でしかないが、日付と時計の機能が狂っていたのでそれを直しただけだ。僕みたいな機械音痴でも直すことが出来たのだから、本当に簡単なことだ。それなのにわざわざ数日後に白菜を抱えて入ってきてくれたのだがら恐縮しないわけにはいかない。  なんて律儀なのだろう。もし家に若い人がいたらわざわざセッティングにやってくるほどのことではなかったはずだ。それなのにわざわざお礼を届けてくれた。僕がしたことと、頂き物があまりにも不釣合いだ。長年の重労働のせいで腰が曲がっている。あの体でこうした重量野菜を作るのは大変だろう。そのことが分かるから余計に申し訳ない。  今回のことは、この町で暮らしていたら特別なことではない。このような律儀はしばしば体験することだ。牛窓だけでなく、田舎ならありふれた光景だ。ただ、こうしたことが特別有り難く、かけがえのないものだと分かるには長い歳月を要した。感謝1つにも長い時間をかけた訓練がいる。そうした訓練に参加できなかった人たちが、時にして、いや往々にして力を持つ。そして低俗でいかがわしいそうした力に抗うことの出来ない人たちが彼らをのさばらす。  白菜3つ分の恐縮を天の窓から降らせたい。