温羅

 僕が目指している商店街のアーケードの下辺りから、スピーカーで叫ぶ大きな声が聞こえる。近づくにつれて大きくなる。なんだか青年期のデモを思い出した。当時は日常茶飯事の光景で、目的を本当に理解していたのかどうか今では疑わしいが、シュプレヒコールの声を街中に轟かせていた。政治に興味があろうがなかろうが、なんとなくでも参加できた垣根の低い行動だった。  僕が見たのは、似て非なるものだった。結構強い雨だったので、今日岡山市で大きなお祭りが行われていることを忘れていた。多くの若者たちの団体が、うらじゃ踊りに参加して、その出来栄えを競う日だ。恐らくずいぶん練習してきたのだろう、その装束はもとより踊り自体もなかなかたいしたもので、雨をよけてアーケードの下で繰り広げられている幾団体の踊りはそれぞれ圧巻だった。  ただ僕は立ち止まってそれを見る気は起こらなかった。誰が音頭を取ってこんなことをやらせているのだろうと思ったのだ。若者が楽しそうに踊っているのを否定するものではないが、僕は本来の若者が使うべきエネルギーが、何か違うものに使われ、意識を本質からそらされているのではないかと思ったのだ。大人たちがお膳立てしてくれた中で騒いでも、所詮世の中も自分も変えることは出来ないのではと思ったのだ。  まるで老人たちが経営する会社の中で、安い給料に甘んじ、過労死寸前まで働かされている若者に見えたのだ。まるで老人たちが己の欲望を満足させる手段に遣っている政治の場で、無関心を逆手に取られ、生かさず殺さずの時代に引きずり込まれているように見えたのだ。いつ誰がどのような手段を使ってそうしたのか、青年たちは記録しておくべきだ。そしていつか必ずやって来る断罪の日に備えるべきだ。若者たちがいつか本当の「温羅」になって、自分たちを守って欲しいと思う。