真似

 僕が薬局の仕事を始めて数年経った頃、あるメーカーのセールスが結婚するなら山陰の女性がお勧めですと教えてくれたことがある。当時僕はすでに結婚していたから対象にはならず、息子が将来そう言う年齢に達したら参考にしようくらいな気持ちで聞いていた。山陰は当時まだ、3世代で住むのが当たり前で、お嫁さんが良く尽くしてくれるというニュアンスだったのかもしれない。まだそう言った価値観が残っていた時代なのだろう。ありきたりな言葉で言えば「人がいい」と言うことになるのだが、昨日山陰までとは行かないが、県北に行ってふとその言葉を思い出した。  岡山県でも中国山地に近いところはまだ3世代同居は珍しくない。恐らく昨日和太鼓のコンサートで行った勝央町も同類ではないかと勝手に想像する。そうした予備知識があったからなのだろうか昨日特異な経験をした。  はるか彼方にある見知らぬ土地へ行くのだから結構余裕を持って家を出なければならないと思って早く出た。ところが予想以上に交通網が整備され、着いてから余裕があった。その時間を潰す目的もあって、昼食をとろうと思った。勝央町に入って会場までの道中で1軒だけお店があったので、その店に入った。入った時には結構お客さんがいて、僕は一人なのでカウンター席に腰掛けた。ところが注文を聞いてもらってからが地獄だった。時間が少し過ぎた頃何となく不自然さを感じた。他のお客さんがテーブルの上にもうなにもなくなっているのに席を立たないのだ。そのうちに実はまだ注文の品が出ていないのではと思い始めた。見ると半分くらいの人がまだ料理を待っている状態だった。数十分後にはコンサートの入場が始まるのにと気が焦るが、なかなか料理が出てこない。僕の予想が当たったことを確信したのは、そのうち店員が入ってくる客を断り始めたのだ。お客さんは空席が十分あるのに何故断られるのか怪訝な表情だったが、後何十分時間がかかるか分からないなどと説明を受ければ、全員が諦めて帰ったのも無理はない。  僕が驚いたのはそうしたやりとりを全部の客が見ているはずなのに、一向に店員を責めないのだ。高校生のアルバイトにしか見えない幼い子が二人懸命に動き回っていたが、なにぶん料理が出来上がらないのだから彼女達も為す術がない。仕事中とおぼしき男のグループが何組かいたが、彼らはブツブツも言わなければ店員達に罵声を浴びせることもしなかった。これが岡山市内だったら、罵声が飛び交うのではないかと思う。こんなに忍耐強く寛容に待ってくれることなどあり得ないと思った。たった一杯のうどんを食べるために僕は25分結局待った。僕は他の客ほど冷静ではおれなかったが、それでも取り乱すことはなかった。これがあの頃聞いた「人がいい」の一例かと思った。  いくらかはいらついていた自分が恥ずかしくなった。そんな僕の反省を込めた起死回生の精算時での言葉は「大変だね、頑張ってね」だった。きっと文句を言われると思っていたのだろう、硬い表情をしていたが、僕のその時に出た言葉でとてもいい笑顔を見せてくれた。伝説の北の土地の人の優しさを少しだけ真似できた瞬間だった。