再認識

 横浜のTさん、薬剤師のHさんの助言のおかげでなんとか今日、京都旅行の約束を果たすことが出来た。それにしても京都の街の、特に清水寺界隈の混雑振りは、助言して頂いて抱いていた危機感をはるかに越えていた。車はほとんど動かずに、人の流れはよどんだ川のようで、はがゆいを通り越していた。  ただ僕は運が良くて、京都の職業人、特に交通関係の人達の親切で、その多くを切り抜けることが出来た。勉強会でしばしば訪ねた京都だが、ホテルでの勉強会を終えるとすぐ退散していたので、いわゆる観光地巡りなどしたことがない。かの国の帰国する数人の想い出作りの為に連れていってあげたのだが、僕自身にも発見があった。  その発見は、と言うより再確認と言った方がいいのだが、僕はやはり観光などと言うもので満たされる人間ではない。京都の代表的なスポットとして金閣寺平安神宮清水寺の3箇所を勝手に選んだのだが、ほとんど感動はなかった。金閣寺の金箔を見ても逆にやすっぽくて綺麗だとは思わなかったし、平安神宮もその広さに驚いたくらいでどうってことはなかった。清水寺も、その参道の商魂の逞しさに圧倒されただけで、肝心の寺は有り難くも何ともなかった。全てが大いに商魂を露出していて、ありがたさに欠け、おかげもとてもあるようには思えなかった。僕は嘗て漢方薬の講演をさせて頂いたことを切っ掛けに、県内のお寺さんの奥さん連中と親しい。その人達の日常の方が余程親近感が持て仏の道を感じる。  今日僕の気持ちを引きつけた光景が二つある。それは早朝岡山駅前の駐車場に車を預けて駅に向かって歩いていると、バス停のベンチに僕に背中を向けて腰掛けている人がいた。遠景ではバスを待っている人に見えるが、長い髪、まだ季節は早すぎる厚手のコート、大きな紙袋が3つばかりとなるとほとんどホームレスの必要条件だ。日が昇ってから1時間になるが、遅い夜明けをどこで待っていたのだろうかと哀れに思った。 予定にはなかったのだが、通りすがりにあまりにも大きな門の寺があったので訳も分からず石段を登っていったのが知恩院と言う寺で通の人には有名なのだろう。沢山の人が参拝していた。知恩院の最上部に経を唱えるようにセッティングしてくれている小さな堂がある。僕らも真似事で焼香をしたのだが、その時に一人の若い青年が、それらしき服装でやって来て、しばらく黙想していた。手には数珠を持ち、小声で何か唱えていた。ひょっとしたらお経を唱えていたのかもしれない。何があったのか、何を志しているのか分からないが、恐らく今日、幾万の人とお寺さんですれ違ったと思うが、数少ないその場に相応しい人だったに違いない。僕も含めてどう見てもほとんどの人が観光なのだから。  取り敢えず一仕事終わった。旅をするなら一人がいい。そんな嘗ての価値観も再認識させてくれた1日だった。