今日僕は姥捨て山をした。妻がとてもうまく母を施設まで連れて行ってくれた。道中も施設に着いてからも、楽しそうな母の様子を聞いてホットした。どのくらい分かっていたのか、どのくらい分かっていなかったのか知らないが、恐らく進行している出来事の1割も理解していなかったのではないか。だから楽しそうな様子の報告ばかりが続いた。最悪のケースも覚悟して送りだしたのだが、そんな修羅場も見ずにすんだ。まさか母が全てを見通して知らぬ振りをしているのではないだろうなと、一瞬考えたりもしたが、最近の人格破壊を見ているとその懸念はすぐに吹き飛んだ。 夕食の時も昨日まで2年間毎日陣取っていた席に人はいない。最初の夜、職員や利用者と上手く行っているのだろうかとふと考えたりするけれど、圧倒的に家の中が楽になる。すべての事象で時間の短縮が図られ、能率も効率も上がり、そして何よりもマイナスの言葉が飛び交わない。悪意に満ちた言葉が消えた。  福祉という名の山に、経済という名の山に今日姥捨てをした。罪悪感と後ろめたさをごまかして、さも何もなかったように再び暮らし始めた。さも何もなかったかのように痴呆を演じた母がいたのではないと頭の隅にまだ消せない想いを持ちながら。