自転車

 35年薬局をやっているが面白い経験をするものだ。  ある青年が漢方薬の相談に来てくれた。すでに長い間服用していて、もう一段のステップアップを狙ってのことだから、お互い知らない間柄ではない。と言ってもメールのやりとりだけだったから、顔は勿論声も風貌もほとんど知らない。詳しいことはプライバシーに関わるから、その面白い経験だけ書かせて貰う。 薬局で彼をちょろっと見かけた人に、「彼は自転車で来たのだけれど、どこから来たと思う?」と尋ねてみた。もったいぶった僕の尋ね方だから多くの方は恐らく自分の想像よりちょっとだけ遠くを答える。それでも多くは同じ市内(数年前の合併でずいぶんと広くなった)をあげ、時に岡山市をあげる人もいた。岡山市でも30Kmくらいあるから随分と遠くだが、正解は京都なのだ。  この辺りの人が京都に行こうとすればほとんどが新幹線だと思う。車好きの人なら車もあり、時間を持てあまし体力に恵まれた人なら、山陽本線もありだが、恐らくもっぱらは新幹線だろう。その距離を自転車で彼はやって来た。京都を朝の5時に出て、隣町(備前市)のビジネスホテルについたのが夜の7時だと言うから、14時間かかったことになる。逆を言うと14時間自転車を漕げば、京都からやってこれるってことだ。もっとも二十歳の青年の、それもサッカーで鍛えた筋肉あってのことだから、僕らが同じ時間というわけには行かないが、それでも自転車で行ける距離と言うことが目から鱗だ。 価値観とまでは行かないが、少なくとも距離の感覚は変わった。車で県外に出ることすら構えてしまう僕でも彼のフットワークを見せられたら、なんだか今まで遠いと思っていた距離が随分と近く感じる。動くことが億劫な僕だから、あまり活動的に過ごしてこなかったが、今は若干後悔している。今更自転車はないが、せめて車ででももっととくまで出かけてみようかと、彼から刺激を受けた。  人は色々、それぞれでいい。久々に広げた地図帳の上に億の人が住む。