鶴島

 穏やかな休日、苦手の事務と今日でなければならない6人の調剤のためだけに、肩の力を抜いて仕事をしていた。すると聞き慣れた甲高い声が入ってきた。それも派手なオレンジ色のTシャツを着て。「又来た~」とでも僕は言ったかもしれない。今思い出そうとしても何を言ったか思い出せない。ほとんど悲鳴に近かったと思うのだが、間違っても歓迎の言葉は出していないと思う。予約の最後の一人がもう10分でも早く来てくれていたら、シャッターを降ろしてあの悪夢のような3人組の乱入を防ぐことが出来ていたのだが。 今日は、日生の鶴島でカトリックの殉教者のためのミサが行われて, 玉野教会から3人の女性が参加したらしい。その帰りに去年と同じように寄ったのだが、段々僕の素性があからさまになるので、どこか近隣に関所でも作って牛窓に侵入させないように手段を講じなければならない。そうしないと誰にも知られない街「玉野」の僕のロマンが崩れてしまう。 今日の乱入にはサプライズが用意されていて、一緒にキム神父様が来られた。おばちゃん達の昨年の再現はあり得るかなと覚悟はしていたが、キム神父様が来られることは想定外だった。コーヒーを飲みながら楽しい話が出来たのだが、その中で感銘を受けた話があったので少し披露する。  洗礼を受けて数年たったのに、僕はほとんどキリスト教について理解は出来ていない。自信を持ってこのことは言える。ただ何となく頭ではなく心で感じるものは多々ある。僕が玉野カトリック教会に通いだして、一番心に響く言葉は、いやそれだけ頻回に神父様のお説教の中で繰り返されているのかもしれないが、「謙遜」と言う言葉だ。謙遜であれといつも呼びかけられているような気がしていた。そしてそうありたいと常々自省を込めてその言葉を反芻している。そして今日、キリスト教の原点そのものが一に謙遜、二に謙遜、三も四も謙遜だと言われた。神様が人間の似姿をして馬小屋の飼葉桶の中でまるで貧しさの象徴として生まれる、これ以上の謙遜があろうか、それが原点だと教えて下さった。恥ずかしながら今まで全くその事には思いが至らなかった。でもまあ、信仰は理屈でも理論でもないから、僕みたいな感性のみでもいいのだろう。信仰して息苦しくなったりしては本末転倒だから。  もう一つ、神父様が調剤室に入って十字架を見つけたとき、立派な宣教になりますよと言ってくださったことだ。僕は、調剤ミスを何とか防ぎたい一心で、又拙い僕の漢方薬が少しでも患者さんの役に立ってもらえたらと、それこそ神様にすがりながら仕事をしているのだが、どんなに良い仕事が出来ても、所詮結果的には経済行為でしかないのだ。いくら善意はあっても所詮経済が100%支配し、慈善ではあり得ない。そう言ったジレンマを抱えながら仕事をしていたが、それで許されるって事を今日教えて頂いた。今のままでいいのだと言って頂いたように思う。  先にも述べたように僕は無知な信徒で、キリスト教について述べ伝える知識はない。又その器でもない。ただ撲の前には、沢山の過緊張を強いられる現代の殉教者がいて、その人達の苦痛を取り除くことが求められる。会社で、家庭で、学校で多くの殉教者が日々生み出されている。ほんの一瞬の笑顔、ただ一度の笑い、それに遭遇するときの喜びを支えに、十字架に守られながら仕事をしている。 神父様を中心に3人の乱入おばちゃん達は1回どころか、1年分くらい笑って帰っていった。3人が丁度僕の一番上の姉と2番目の姉くらいの年齢で、どうも僕には超えられない壁になっていて、あの幸せな笑顔はどこから来るのだろうと考え込んでしまう。どんな宗教でも、心から信頼し身を委ねている人達の特権みたいなものだろうか。いやいや僕には分かっている、手を合わせ神様の御旨のままにと祈れる人と、望を唱える人間との違いなのだ。 今日はおかげで、あの甲高い乱入で大きな頂きものをした。来年は会席料理かフランス料理のフルコースでも用意して、今年以上の頂きものを頂こう。あ、又欲が出ている。これだから当分あの3人の壁は越えられそうにない。