大車輪

 身の軽さでは小学校の頃から抜きんでていて、休み時間のヒーローだった。高学年になると休み時間には鉄棒でよく遊んで、逆車輪が出来るかどうかがヒーローになれるかどうかの最大の分かれ目で、大車輪になるとほとんど中学校の体操部に直結だった。逆車輪だってほとんどの人が出来ないから僕らには大車輪が出来る彼は羨望の的だった。当然その後の彼は体操で有名な高校、大学と進んで、その後はスポーツクラブの指導員などを経て、牛窓に帰ってきた。体操が得意な子の良くあるコースかもしれない。それでもさすがにその道でならした人だけあってオリンピック選手の一人を敬称なしで呼んでいた。中学校までしか一緒の学校に行かなかったから具体的な活躍は知らないが、進む道で人脈というのは出来るものだと感心していた。 その彼がびっこをひきながら薬局に入ってきた。つま先あたりを骨折したらしいのだがその理由がふるっている。段差のあるところを降りていて捻挫したらしいのだが、その段差が僅か10cmくらいしかなかったらしい。嘗て、僕らがテレビで見る体操選手の妙技に近いことが出来ていた男が、僅か10cmの段差を踏み外しただけで骨折するなんて考えられない。プロの音楽家が音程をはずすようなものだ。水泳選手が溺れるようなものだ。マラソンランナーがトラックの中を走っている間に息切れするようなものだ。アデランスの社長がはげているようなものだ。資生堂の社長がシミだらけのようなものだ。大正製薬の社長が風邪をこじらせるようなものだ。スーパーマンが落ちるようなものだ。 話がそれてしまったが、その彼でさえこうなのだから同級生の僕だって肉体的には同じ条件だ。髪の毛がほとんど無くなった頭頂部を叩いて哀しみのヘッドライトと言い、口笛を吹いて下の歯が無くて鳴らなかったと教えてくれるが、彼の話は決して人ごとではない。ただ、酒とタバコで傷めた肌はさすがに実年齢よりも遙かに老けて見えて、それに輪をかけた博打好きは精神までも老いさせている。  時間を誰の為に使うのか、能力を何のために使うのか、現役をいつまで続けるのか、選択肢の少なくなった閉店前の食べ物屋でメニューを覗く。空席が目立ち、電気も落とされ、居心地の悪さにしがみつく。今日に未練があるわけではないのに明日にふと希望を感じたりする。「なんにもしないことが、なんかすることと同じだったりする」(by友部正人