能動

 頭のすぐ上を飛んでいった鳥の羽音を初めて聞いた時、鳥は飛べるのではなく飛んでいることに気がついた。その気付きは僕には結構衝撃的だった。そうしてみると、魚は泳げるのではなく泳いでいるのだ。猿は木に登れるのではなく、登っているのだ。チータは速く走れるのではなく、速く走っているのだ。 人間も同じだ。歌手は上手に歌が唄えるのではなく、上手に歌っているのだ。落語家は面白いのではなく面白くしているのだ。イチローはよく打てるのではなく、よく打つのだ。石川遼君は良く飛ばせれるのではなく、良く飛ばすのだ。 懸命に羽ばたかないと落下し、懸命に尾びれを動かさないと進まないし、手足の筋力を使わないと速く走れないし木にも登れない。歌い込まないと人には聴かせれないし、素振りを毎日人の何倍もしないと、ボールに確実にあてることも出来ないし遠くにも飛ばせない。動物も人も目的を持って、意志を持って努力しているのだ。  漢方薬でも同じだ。飲めば効くのでもないし、売れば効くのでもない。飲んで治すのであって、治すように作るのだ。明らかな意志、能動的な行為が介在しないと何も実らない。日常の些細な行為だって同じ事だ。それが意味を成すかどうかはすべて能動的な関わりが必要とされる。飲むだけで治るのなら薬局なんか必要ない。薬局に治してやろうと強い意志を持っている人間がいるからこそ意味があるのだ。薬局の中で懸命に羽ばたいたり、尾びれを振っている人間がいるから喜んでもらえる結果が出るのだ。飛べるのではない、泳げるのでもない、そして治るものでもない。当人と僕の治すという意志が共鳴したときに良い結果は生まれる。 飲んでもらえれば効くなどと言う神業は僕ら凡人には出来ない。ひたすら飛ぶ鳥になり、泳ぐ魚になるしかないのだ。それもなるべくなら野生がいい。