ヨーソロ

 閉店前にやって来たから「珍しい時間帯ですね」と顔を見るなりすぐに声をかけた。僕より少し年上のその夫婦は、岡山市から来るから、まず明るい時間帯にしか来ない。聞けば花火を見に来たというのだ。こんなに近くに住んでいても見に行かない僕は、その好奇心と行動力に感心した。  「あそこのマンションの下からならよく見えるかな?」となかなか通みたいな事を言う。何階建てだったか忘れたが、牛窓では飛び抜けて高いマンションは町内のどこからでも見えるが、そこに行くのは地元の人でないとすぐには行けない。恐らく薬局に来たついでに牛窓を散策したことがあるのだろう。実はこうした人は結構いて僕も少しは牛窓の役に立っているのかなと思うのだが、足を引っ張っていることも多いからプラスマイナスゼロくらいなら上出来だ。さて、夫婦が指摘したリゾートマンションは、まさに花火を打ち上げる防波堤の真ん前にあり最高の位置だ。マンションの人のために打ち上げられると言っても信じる人がいるのではないかと思えるくらいの立地だ。寧ろ言われてみて僕の方が納得する始末だ。ただ、マンションの下と言う言葉が引っかかる。「ご主人、マンションの下なんてみみっちいことを言わずにマンションの上と言ったら。まだ沢山売れ残っているよ。売れずにどんどん安くなっているのだから」  「買えるもんか」と夫婦は顔を見合わせて笑っている。そうだ、僕の薬局を利用する人でリゾートマンションを買える人なんて滅多にいない。買える人もいないが、そんなことを考えられる人もいない。「庶民じゃなあ」とたたみかけて言えるのは、相手が正真正銘の庶民だからなのだ。ごく普通の人達が出入りする薬局だから、こんな会話が笑いながら成立する。庶民より上は本来的に苦手、庶民より下は差し伸べる手がか細すぎて役に立てない。  旦那は男の更年期だったのか、鬱病だったのか、慢性疲労性症候群だったのか今だ分からない。医師の診断名に拘らないでお世話したのが奏功したのだろうが、一番効いたのは口に錨を降ろしているのではないかと言うくらい遅いしゃべりを根気強く待ったことだと思っている。口が必要でなかった時代の職人のなごりが、ハシゴをはずされて屋根に取り残されるのを見ているのは忍びなかった。 二人は夜空に咲き、散る火の花に何を思い何を語るのだろう。ご主人、口の錨を上げてヨーソロ。