爪切り

 ありがたい、ありがたい。何の努力もせずにこんなに笑わせてもらって。おまけに1300円もお金を頂いて。この全身の筋肉の緩みようだとこちらがお金を払いたいくらいだ。 薬局の中に僕も含めて5人がいた。ずいぶんと回復はしたがもう少しだけ心が明るくなれば完治の女性とその家族、そして僕の娘。その家族を応対中に車を横付けにして後部座席から一人女性が降りてきた。一目で旅行客だと分かるし、上品そうな方だった。すぐ用事が済みそうだったので僕が促して先に用事を聞いた。すると爪切りが欲しいらしいのだ。扱っていないと即座に断ったのだが、ふと今、急に必要になっただけだろうと思い、我が家のを貸してあげると提案した。帰ろうとしていた女性は喜んで爪切りを持って車の所に戻って行った。僕はすぐ態勢を立て直して相談者の方に集中した。ところが例の爪を切るカチン、カチンという金属がぶつかる小気味よい音が薬局の前でするのが耳に入る。何となく耳に聞こえる数が多すぎないかと思ったのだが、勿論それ以上には気は巡らない。  しばらくすると女性が爪切りを返しに入ってきたのだが、その時に二日酔い予防の薬が欲しいといった。たった1度爪切りを貸してあげただけで、薬を買ってもらうのは不本意だ。高い爪切りについたのではないのと言って断ったのだが、本当に必要らしいから僕が考えられる最高の予防薬を出した。会計をしている間に「すみません、足の爪まで切らせてもらって」と女性が言った。「どおりで長いと思っていました」と僕は答えた。 女性が出て行ってから相談者のご主人が口火を切った。もうその時点で笑いをこらえることが出来なかったみたいで「足の爪まで切って・・・・」と最後は言葉にならなかった。すると余り笑わない奥さんも下を向いたまま必死で笑いをこらえている風だった。「どおりで爪を切る音が大きくて、回数がやたら多いと思っていた。両手を切っても10回くらいですむはずなのに」僕の説明に又爆笑が起こった。「今度、先生の所で売ってないものを言って入ってこよう」とご主人が言うから「僕は何でも希望に答えないと気がすまないたち」と答えたが、それは本心だ。だから何気ない思いつきでとった行動なのだが、5人の人間が笑わせてもらったことに感謝する。どんな男性が20本の爪を切ったのか知らないが、品のいい女性だったから、それに相応しい男性で「気兼ねをしない」性格の人なのだろう。それはそれで又気持ちがいい。僕はてっきり車に乗っている人達が順番に爪を切っているものとばっかり思っていたので。