死語

 アメリカのハーバード大学などの研究チームの発表だからかなりの信頼性がある。だとしたら、それは悲しいことでもあり、残念でもあり、憤りでもある。 最近存在が珍しくない注意欠陥・多動性障害は、有機リン系の農薬を低濃度でも摂取した子供がなりやすいと言う内容だ。検出ぎりぎりの濃度でも農薬成分の代謝物が尿から見つかった子は、検出されなかった子より1、93倍の確率で注意欠陥・多動性障害と診断される可能性が高いことが分かった。色々憶測はされていたが、一つの原因として確定するのではないか。もしそうなら、なんてやりきれない被害なのだろう。もし、農薬が残留していない果物や野菜を食べていたならばならなかった障害かもしれない。母親が、おじいちゃんおばあちゃんが丁寧に洗ってからくれたものなら、そんな障害を持たなかったかもしれない。防げたものだとすると返す返す悔しいだろう。発達過程にある子供の脳は神経系に障害を与える可能性のある化学物質に特に弱いと考えられているらしいが、もしあの時もっと丁寧に洗っておけばとか、無農薬野菜を買っておけばとか、親は自分を責めるだろう。  科学の発達により作られた障害、生産性を追求したあげくの障害、見栄えばかりを追った潔癖すぎる社会が生んだ障害、色々な状況は考えられるだろうが、その諸々のものが交錯した時代に生まれ育ったことが不運だ。誰一人意図してもたらされた不運ではない。それだからこそ社会全体が詫びて彼らに尽くさなければならない。家庭の問題にするのではなく、豊を追求した時代と社会の歪みを、身体で表現させられた人達に社会全体の問題として報いなければならない。 皮肉にも世間の関心は、恵まれて満たされてる人達に向きがちだ。何の落ち度もなく暮らしていた人が無慈悲にも障害を背負わされる姿は目に留まりにくい。社会全体がより謙遜になって懺悔し、子供達を守ることを優先しなければ、社会などと言う言葉は死語となってしまう。