東大医学部

 僕には確信のようなものがあった。だから東大の合格発表の日を偶然テレビで知った時から、ちゃんとのし袋に入れて合格祝いを用意していた。別に差別をするわけではないが、受験したのが医学部だから中身は一軒の家が建つくらい入れておいた。勿論明治時代ならではの話だが。  昨日その当事者がお母さんと訪ねてきてくれた。薬局に入ってきてすぐに僕はどうだったと尋ねたのだが、そんな質問が必要ないことは分かっていた。当然彼は合格していた。なぜだか分からないけれど、僕は理性を失うくらい嬉しかった。いや、日常もほとんど理性を失っているから、今更という感じはしないではないが、とにかくひたすら嬉しかった。握手した後に、ハグをしようとしたのだが、さすがにそこまでは他人だからはばかられて、単数形のハクくらいで止めた。  僕は縁あって、彼を中学生から知っているから情が移ったのかもしれないが、他人をしてここまで喜ばせる何かを、彼や彼の家族の人達が持っているのは確かだ。その何かを説明するのは難しいが、ひょっとしたら、僕のブログの読者の中にも東大の医学部を受けようとしている人がいるかもしれないから、思いつくままに書いてみる。印象だから当たっているのかどうか分からないが、参考までに。(そんな人がいるものかと思うかも知れないが、事実他にもいるのだ。何故こんな田舎の小さな薬局にそんな人が来るのか分からないが、それはひとえに僕の人格による。いや違った、人角だ。僕には人間として備わるべき角がないのだ。精神はフニャフニャの軟体動物だから)  僕は彼やあの家族にとげとげしさを感じたことがない。高きを目指している人特有の張りつめた緊張感、時にそれは他者に対する攻撃性や空虚な優越感として現れやすいのだが、そんな磁場を感じなかった。寧ろどちらかというとその逆で、その道まっしぐらではなく、適度な振幅を持って、飾り気のない生活を楽しんでいるように見えた。  彼らが訪ねてくれた時あいにく施設の患者さんの急変による薬を6人分すぐに届けないといけなかったので、根ほり葉ほり彼に尋ねることが出来なかったのだが、若い読者に希望を少し。まず嬉しいことに彼も勉強が嫌いだと言った。勉強は日に3時間だったらしい。10時間もする人はそれ自体が才能だとも言っていた。あれだけの難関に合格する人間でも勉強が嫌いだなんて、メチャクチャ親近感を持つ。その上、数学が苦手だなんて言うと思わず握手をしたくなる。人間そんなに本質では違わないんだ。僕は裏山で、彼はヒマラヤ。僕は入り江で、彼は太平洋。山は山だし、海は海だ。どうだ、みんな自信を持ってくれたかな。  自信を持ってもらうためにもう一つ。実は彼は大の鉄道ファンなのだ。何鉄とか言う呼び方が色々あるらしいが、そのどれに当たるのか僕は知らない。東京の予備校に通っている間に地下鉄を制覇したと言うから何鉄なのだろう。地下鉄はトンネルばかりで景色を見ることが出来ないから、入り口あたりに貼っている路線説明のシールで地下鉄の駅を全部覚えたらしい。凡人なら英単語の一つでも覚えようとするのだが、駅の名前を覚えていたというのだからさすがだが、ひょっとしたら俺でも、私でもと希望が湧いてこないだろうか。 合格後の彼に是非尋ねたいことが実は僕にはあった。どうして東大の医学部に固執したかだ。それ以下に志望を落とせば昨年合格していたはずだ。でも敢えてそこだけを目指したことにはきっと訳があると思ったのだ。その質問に彼はピンポイントで答えた。「認知」について研究したいというのだ。認知症のことではない。人が何かを認識する行為を研究したいと言うことだろうか。これは当たっていないかもしれないから、下手な解説はせずに「認知」とだけ言った方がいいかもしれない。その為に、ロボットの研究から迫ることも考えたそうだが、結局は医学からそれに迫ろうと判断したみたいだ。合点がいくとはこのことだ。僕は単なる病気を治すだけなら東大を目指すはずはないと思っていた。きっと研究職を目指しているのではないかと勝手に想像していたのだ。それでこそ、彼の努力が報われるだろうし、彼の努力によりいずれ沢山の人達が報われるだろう。恐らくそんな大学であればいいのだ、あの大学は。  これだけハッキリとした、具体的なテーマを持っていれば、入学してからの勉強のモチベーションは維持されるだろう。いやいやそれどころかますます高まるだろう。入学後3日にして早くも居場所をなくし、以来5年間パチンコに通い続けた僕とは雲泥の差だ。いや、やはり入り江と太平洋の差か。  いずれ彼は多くの人に先生と呼ばれる立場になる。そこで彼には言っておいた。間違ったら困るからこれから僕のことは「大先生と呼ぶように」と。それはそうだろう、東大の医学部に合格した理由の1割が彼の努力。残りの半分ずつが、親から受け継いだ才能と僕の漢方薬だから。明日から僕は忙しくなる。理Ⅲ煎と言う訳も分からないお茶を作り、飲むだけで東大の医学部に合格すると宣伝し、全国の受験生に売りまくらなければならないから。そうだ、おまけに時刻表でも付けておこう。