困難

 考えていたこととはまるで違う体験者の声なので正直驚いた。想像の域を出ないと言うことが、如何にあやふやで無責任なことか良く分かる。悪意はなくても、いつでも何処でも無知が人を傷つけているのだろうと、僕を又臆病にさせる。  ある人が弟さんの話を何かのきっかけで始めた。アトピーがかなり激しいらしい。兄としてもかなり心を痛めているだろう。その弟さんは喘息も持っているらしい。喘息も結構重症で夜間呼吸困難に陥ると言う。その弟さん曰く、アトピーが悪化してかゆさに耐えれない方が、喘息の発作を起こして布団の上で呼吸困難になるより辛いそうだ。一瞬耳を疑った。当然のことのようにその逆を考えていたから、予期せぬ内容に戸惑った。あの苦しそうな呼吸より遙かに辛いかゆさとはどんなものなのだろう。それこそ想像を絶するものなのだろうか。  弟さんは、鍼の免許を取って、漢方薬を飲みながら、そこそこの不快さで納得しているらしい。この程度なら構わないとお兄さんに言うらしい。完璧を求めると、それに気疲れするというのだ。人によって許容範囲は大きな違いがあるだろう。その人がどの程度をその許容範囲の上限にしているのか分からないが、少なくとも僕などよりは遙かに上の方を上限にしているに違いない。あたかも僕が腰や首の痛みの上限をかなり上の方に設定しているかのように。いや、心の方もそうか。この仕事をし始めて、特に漢方薬にまつわる仕事が増えてから、交感神経が亢進し続けているように感じる。僕の上限は、仕事が出来ればいいの辺りにおいているから、痛みで仕事を休むこと、心が痩せて人の話が聞けなくなることが避けられればいいと思っている。年齢的に何処の辺りまで持つのか分からないが、若干毎日が綱渡りのような気もしてきた。嵐を避けて港に逃げ込むのも必要だろうが、今の僕には風を避ける港はない。数年前までは明らかにバレーボールで救われていたが、今はあれに優るものを見つけることが出来ない。涙が出るほど笑っていたあの頃は、ただ懐かしさの記憶でしかなくなってきた。  無知を恥じるほどの知恵もない人間が闊歩するご時世に、他者の痛みに敏感であれと諭しても、それを身につける幼少の頃の空白は取りかえせない。困難を排除した道は素足でも歩ける。大人も子供も困難を排除した道を選んで、困難のるつぼの中に落ちて行っている。飛び込んだ困難なら抜け出ることも出来ようが、舞い込んだ困難からはなかなか脱出できない。それこそ困難なことなのだ。