収容

 特別養護老人ホームの薬を作っている関係で、数回施設の中を見せてもらったことがある。1度だけ往診する医師について全ての患者さんも見た。もう1年以上前のことだが、印象深かったせいかよく覚えている。個室や複数部屋に横になっていた人達もいたが、僕が訪れた時間帯は多くのお年寄りがホールに集まって、いくつかの大きな丸テーブルを囲み、思い思いに過ごしていた。ある人は縫い物をして、ある人は介助されながら何かを食べていた。ある人は虚空を見上げるようにしていた。ある人は僕の動きを目で追っていた。  それは楽しい光景ではなかった。何か違和感がぬぐえなかった。職業柄毎日多くの老人と接するが、明らかに雰囲気が違い、「収容」と言う言葉が頭をよぎった。勿論、介護の負担に耐えれない現代家族の働き方でこの種の施設が必要なのは分かっているが、異様な雰囲気を感じた。良い悪いの判断ではなく、不自然な光景に見えたのだ。  隔離された施設の中で、若いヘルパーに助けられ生き延びることが本望かどうか疑わしい。不自由はあっても、地域で子供達や犬の鳴き声を聞きながら過ごす方を望んでいたかもしれない。寝たきりや痴呆など昔の人はよく頑張ってお世話をしたものだと今更ながら感心するが、恐らくそれが出来るくらい、今よりはゆっくり時計の針が進んでいたのだろう。僕が牛窓に帰った頃は、昨日のようにも思えるが、明らかにまだ働き方に余裕があったのだろう、家でほとんどの人が介護していた。愚痴はこぼしていても、まだ主役は老人の方にあった。主役が介護する方に移ってから、全てがシステム化されてしまった。老いて死にゆくこともシステムに乗かっているのだ。  谷があり、川が流れ、池もあり、橋が架かり、鳥が鳴き、獣たちが通る道があるから山は山なのだ。山だけの山は山ではない。泣きじゃくる幼子、学校へ急ぐ小学生、職場に向かうお父さん達、畑にしゃがみ込み草を抜くおばあちゃん達。みんなみんな、大切な風景なのだ。それらが集まって初めて町になる。寝たきりになっても窓の外に感じることが出来る営みがある。同じ空気が窓から侵入し又出ていく。  進んでいい時代もあれば、止まって欲しい時代風景もある。