副作用

 薬局には毎日数カ所から必ず薬に関する情報が入ってくる。郵送もあれば、FAX、インターネットもあり、そのあまりの多さに食傷気味だ。懸命に目を通そうとするが、物理的に無理だ。興味あるものにだけ目を通すと、知識が偏ってしまうし、興味がないものは頭に入ってこないで、なかなかこの仕事も難しい。  今日、その興味がない方に属する情報に目を通していたら、興味ある文章を見つけた。パーキンソン病に使う薬の副作用情報なのだが、「病的賭博(個人的生活の崩壊等の社会的に不利な結果を招くにもかかわらず、持続的にギャンブルを繰り返す状態)の衝動制御障害が報告されているので適切な処置を行うこと」と言うものだった。難しい表現だから分かりにくいが、要は、負けるに決まっているのに、一縷の望みに賭けて通い続け、土地も家も手放し、嫁さんには逃げられ、子供には罵られ、さっぱりと言うことだ。役人言葉でなく、このように分かりやすい言葉で書いてくれれば一瞬にして理解できるのだが、理解するために何回読み返したことか。もっとわかりやすく言えば、学生時代の僕みたいなものだ。バス代の最後の100円まで使い果たし、雪が降る中10kmの道程を歩かなければならなくなった。その時分別などまるでない。起死回生の一発に賭けてしまうのだ。何回かに1回の成功体験が頭の中を占めて、冷静さなど入る余地はない。まさに制御不能だった。  さりとて、いっぱしの博打打ちになる勇気もなかったから、何とか卒業までこぎ着けた。興味がないことを強いられたとき、それに立ち向かっていく気概は元々持っていなかったから、逃げの一手でパチンコに通ったのだろう。当時、金がない奴にはパチンコが分相応だった。今ほどギャンブル性がなかったから、100円玉数枚あれば十分遊べた。さしずめ、現代で言うとテレビゲームなのだろう。今の若者がゲームにのめり込むのと何ら差はないと思う。さすがに、ゲームというものをやる年齢ではないので、体験がないが、一人部屋に、あるいはゲームセンターに入り浸る若者の姿と、当時の僕は重なってしまう。だから僕はゲームに浸る若者を、何ら批判できないし、するつもりもない。青春とは孤独なものだから、何か無機質でもいいから、単純な作業を繰り返し、ひたすら時間を消費しなければ持たないのだ。心の奥底では、いつも自分を否定する声がして、パチンコ屋の喧騒がそれを一時聞こえにくくしてくれるが、決して消し去ることは出来なかった。  5年間の不自由な自由のおかげで、逃げ場所が必要のない生活に戻れた。頑張ることに飢えていたのかもしれない。田舎にこもり、田舎の人の役に立とうと懸命に努力した。久々の、終わりのない努力の始まりだった。孤独を感じるほど世間は冷たくなく、奥ゆかしい素朴な人達に多く出会い、小さな感動をいくつももらった。否定は何も産まなかったが、否定の季節があったからこそ、肯定の季節が訪れたに違いない。いつか必ず誰にも訪れる季節の矛先が大きく変わる時が。その時心の扉を大きく開いて、疾風のしっぽをつかんで放さないで。風の背中に乗って旅立つ朝だから。