山下 達郎

 日曜日に車の中で偶然聞く機会が多いのが、毎年クリスマスになると俄然脚光を浴びる歌手がDJを務める番組。別に選んでその番組を聞いているわけではないが、流れている曲が何となく波長が合うのかその周波数に合わせてしまう。  昨日も偶然その番組を聞いていた。リクエストと共に、相談に乗ってくださいという男性からのはがきが読まれた。好きになった女性と食事に行ったのだけれど、上手く雰囲気を盛り上げられなくて彼女に嫌われたのではないかと心配している内容だった。山下達郎が答えて言った。「僕らの時代は、2,3回ふられるのは当たり前、ふられた奴を回りが慰めていた。今の若い人は失敗を恐れすぎている」あの年齢の歌い手になると人生相談もするらしい。回答も極めて的を射ている。ただ、さすがに歌番組で、それ以上はない。何故若者がそのようになったのか。あるいはその傾向は若者だけなのか。  僕は最近気が付いたことがある。いつの頃からか定かではないが、西洋人の女性は全員美人だと思っていた。幼い頃から見ていたのは、雑誌に載っているモデルか、映画に出演している女性だけだったので、全員があんな顔をしているのかと思っていた。ところが、多くの外国人をごく普通に見かけるようになって、ああ、あれは選りすぐられた特別な人達だったのだと、気が付いた。ほとんどの女性は、やはりそれなりにバランスが崩れていて、日本女性の方がよほど美しいと思い始めた。こんなたわいもない思い過ごしなのだが、ひょっとしたら現代の若者もこれと同じ次元の思い過ごしで苦しんでいるのではないかと思ったのだ。毎日洪水のように放映されるテレビ番組や映画、あるいはゲームの世界でも、脚色され尽くした登場人物や情況をインプットされ続けて、外見を始め、失敗や負けをよしとしない風潮がはびこっているのではないかと思うのだ。学校でも、職場でも、もっと言えば遊びにおいてさえ負けることをよしとしない風潮に支配されているのではないかと思うのだ。親の見栄による無言の圧力かどうか知らないが、鎖で手足を縛られてはかなわない。壊していくら、壊れていくらの若者が、壊しもしない、壊れもしないでは、何もしないことと同じだ。青春の価値がない。残念ながら、ほとんどの人は外見も内容もごくごく普通の人間。その恵まれた「自由」を生かして、あたって砕けろだ。普通の人間が傷つこうが、失敗しようが、世間に何の影響もない。内なる自尊心が傷つくだけで、葉っぱ一枚落とすことも出来ない。このうちなる心を克服できたら、自由に飛び回れる羽を得られる。将来役に立つのは失敗体験だけだ。上手く行った事なんて何の役にも立たない。失敗の残骸を山と積んでその上で寝転がっていればいいのだ。  身なりは出来るだけみすぼらしく。持ち物は持たずに、財布にはいつも水に浮くお金が2枚か3枚あればいい。それも野口英世くらいで十分だ。失うものがなければ臆病になんてならなくてすむ。