腕時計

 30年以上腕時計をしなかったので、どこの街に行っても商店の時計をのぞき込むばかりしていた。僕にとって必要な時刻は、様々な街で開かれた研究会の開始の時間だけで、それ以外はあまり意味を持たなかった。何とか開会の時間に間に合えば良かったから、ホームに立ち、来た電車に乗った。早く着けば商店街をぶらぶら歩いたし、遅れそうになれば雑踏の中を走った。どこにいても腕時計がないための不便は感じなかった。身に何かを着けることが生理的に耐えられないタイプだから、手首に金属や皮があたることを考えただけで鳥肌が立つ。だからしたことはないがネックレスなんてものはほとんど僕にとって拷問に近いのではないかと思う。  幸運にも身だしなみにはほとんど興味がないから、かなり倹約できているのではないかと思う。下着と靴下以外は今でももらったものを大切に使っている。基本的には何でも破損して使えなくなるまで使うタイプだから、衣服も1枚あれば数年使える。倹約の結果が何に変わっているのか、どこに残されているのか分からないが、実はそんなことより、はるかに心を解放してくれたところに価値があった。どこにいても、どこに行っても、ほとんど日常に近い僕がいた。特別な自分はどこにもいなかった。いつもの言葉で喋り、いつもの顔で笑い、いつもの口で食べた。肩から力は抜け、心は穏やかだった。飾らないことは僕にとっては最強の防御だった。評価が下がれば下がるほど僕は自由になった。  持たないことは失わないこと。本当の自分を失わなければ恐れることはない。虚飾は自分ではぎ取って、いつでもどこでも平常心でありたいものだ。