痛み

 何回経験してもこの痛みは辛い。痛いだけではなく、僕の場合は体重を支えられずに腰掛けても座っても、どんな体制でも縦になれないのだ。要は自分の体重が支えられない。横になるしかない。寝返りも痛みでゆっくりとしかできない。ぎっくり腰は何回か経験しているが、最近の腰のトラブルはこのパターンだ。年末から、いやもっと以前から腰には凝りを感じていた。それがこの数日鉛をぶち込まれたように腰の辺りが燃えていた。そして一昨日、いつものようにあれよあれよと言っている間に、立てれなくなった。  回復までに時間がかかることは経験から分かっていたので、諦めて寝るしかないのだが、諦めてと言うのが難しい。階下から、僕が抜けたスタッフが忙しそうに仕事をしているのが伝わってくる。なぜかしらないが、僕が倒れると必ず患者さんが殺到する。皮肉なものだ。一生倒れていたら栄町ヤマト薬局も繁盛するのかもしれない。昨夜は閉店を遅らせてまで、薬剤師さんも帰れずに仕事をしていたみたいだ。お蔭で、僕の立場は危うくなり同情は得られない。小さくなって小言を甘んじて受けている。直接的にはバレーが原因かもしれないが、もう筋肉が僕の日常を全部引きうけることができなくなったのだろう。  結局まる2日くらい僕は仕事が出来なかったことになる。電気毛布をがんがんに熱くして横になっていたのだが、眠ったり、焦ったり、テレビを見たりと、結構情緒不安定に過ごした。横になりながら、僕は必ず治るという前提であることに救われていると思った。これが治らないことを悟って、或いは感じて横たわっている人の心はどうだろうかと思わずにはおれなかった。それは誰にも必ずやって来る状況だ。僕の世代にはもう計算出来る辺りにそれが押し寄せている。深い絶望の中で多くの患者さんは横たわり、死を待っていたのか。死から逃げたくはなかったのか。死から救って欲しかったのではないのか。ベッドから見上げたお医者さんは救い主に見えたのではないか。この2日間は、やがて来るべき日の疑似体験のような時間だった。  もう一つ感じたこと。世代によって考えは違うかもしれないが、働けないことは辛い。働くことが楽しいわけではナいが、社会の息吹に参加できないことは辛い。意識的にそれに参加しない人は別として、参加したくても参加できない人が多い。個人の力量のせいにせず、国や公的なものが救い上げる義務があると思う。強い一部の人たちだけが人生を謳歌出来るような国にしてはいけない。命を戴いた人皆が、幸せに暮らすことが出来るように公平な機会が与えられなければならないと思う。  痛みは僕に謙虚になれと教えてくれる。もうこらえてと叫んでみても、この醜い心には忘れた頃の繰り返しの鉄槌が必要ならしい。