窒息

 二日連続で新幹線ネタ。
 こだまの各駅での長い待ち時間のための停車には参ったが、そのおかげで考えたことがもう一つある。
 こんなところに新幹線の停車駅は必要ないだろうと思う駅は概して小さい。だから新幹線の中から町並みが障害物なく見下ろせる。要はホームのすぐ下に町が広がっているってことだ。そしてそれはいかにも繁華街と言うのではなく、どこにでもある住宅街だ。目に入る建物全てが一戸建てと言う駅もあった。そしてそんな込み入った町の中を車がすれ違えるかと言うような細い道が迷路のようにつながっていた。車で入り込んでしまうと、接触事故を起こしてしまいそうでよそ者だと怖いだろう。
 恐らくどの町も高度成長期に周辺から人々が集まって町が出来たのだろう。建売かどうかは別としてどの家も小さい。上から見下ろすと、一つ一つがけなげに見える。夢のマイホームを手にした人たちの夢の町だが、田舎者の僕からすれば窒息しそうだ。自分の家から見えるのは隣の建物の壁。自分のプライバシーを覗かれない為の壁。空を見上げたときだけ自由な視線。山は遠く川も海も池もない。
 大学受験が終わり名古屋にアパートを探しに行ったときに、住宅街の余りの人口密度の高さに窒息しそうになった。そんなときに岐阜に滑り込んで救われたが、今も当時と変わっていない自分を発見した。
 牛窓を過疎の町として嘆く住人がいるが、僕はそれを嘆いたことはない。人口は僕が帰ってきたときより半減しているが、一人の人間が占有できる空間の広さにいつも救われている。あの山もあの海も僕のためにあり、あの鳥もこの鳥も僕のために飛ぶ。

凶暴

 僕はマスクはしないが、さすがに混雑した新幹線はいやだと思って昨日の広島行きはこだまにした。1時間に一本は走っているので時間を工夫すれば利用できる。かつての経験で1車両に2,3人しか乗らないことも知っている。昨日は特に倉敷に用事があったから新倉敷駅から乗車することが出来た。一駅広島寄りと言うことだ。恐らく料金もいくばくかは安いだろうし、駐車場代も安いだろう。そして何よりも人の唾を受けることはない。
 新倉敷駅は、想像していたよりも簡素で、と言うか、なぜ新幹線が止まる必要があるのだろうと考えさせられるくらいのものだった。以前そのあたりから総理大臣が出たから、ご他聞に漏れず利益誘導だったのか。だとしたら国民は後世も延々と無駄な金を運賃などとカモフラージュされ払わされることになる。汚部なんかさっさと政界から追放しなければならないよい前例だ。
 予想通り行きも帰りもガラガラだった。一車両に降りるときはどちらも3人だった。唯一つの例外は広島から東広島のわずか1駅を利用した人たちが何人かいたことだ。子供連れが多かったように見えたが、やはりコロナウイルスを用心しての意図的な出費だったのか。
 実は、昨日の僕の判断は正解だったのか誤りだったのか悩みながら新倉敷から車を運転して帰った。と言うのはある程度は予想していたのだが、駅に止まるごとに10分くらい停車するのだ。後から来るのぞみ等を追い越させるためなのだが、必ずどの駅でも止まったし、どの駅も10分近かった。だから本来なら三原に着いた頃には岡山駅で降りているくらいなのだが、3倍近い時間がかかった。唯一の慰めは、新倉敷で降りたから、そこでの待ち時間15分を免れたことだ。その15分と新倉敷から岡山までの新幹線の時間を合わせると、牛窓へ帰ることができる三分の一を稼いだことになる。新倉敷から25分もかかれば在来線でも岡山に着く。
 東福山で「わずか一駅のここでも後ろから来る新幹線を待つんだ」と思い、次の三原で「ここでも待つのか」と思い、次の尾道では「ここでも待つのかよ」と思い、次の福山では「こんなところで待つなよ」と思った。これで新倉敷駅で降りていなかったら我ながらどれだけ凶暴になっていただろう。こだまとは性格を変えるほどの乗り物ナリ。コロナより実に恐ろしや。

出会い

 僕は何年も、いや20年以上こうして休日は過ごしていた。
 新幹線で広島駅に降りるとすぐに医師会館に向かった。そこで漢方の講演会があったのだが、終わるとすぐに帰った。2時間の講演会をはさんで、3時間くらい広島にいただろうか。せっかくの広島行きも本来の僕には単なる移動なのだ。この10数年ベトナム人の労働者を色々な所に案内してきたから、観光らしきことにいそしんできたが、本来はさほど興味はない。そのことを今日の広島行きは思い出させてくれた。
 僕の漢方の先生の先生。その名前をタイトルにした講演会が医師を中心にした勉強会でタイトルに挙げられていたので、これは実力の程を見極めてこなければならないと是が非でも出席したかった。僕にとって先生の先生を支えた先生を越える人がいるようには思えなかったからだ。そうした存在がもしあったらそれはそれで世のためには喜ばしいことなのだが、今まで耳にしたことがなかったので寝耳に水だったのだ。僕は面白おかしく、それでいて真摯に悩める方々に向き合われる先生の知識を頂いてきた。この面白おかしくが、漢方薬に興味のなかった僕を30年以上漢方の世界に引きとどめてくださった。先生のその飾らない性格がなかったら、今の僕は存在しない。
 お医者さんで漢方を使われている方々の勉強会だったのだが、2時間話を聞いて目新しいことは何もなかった。僕は面白おかしく全てを教えてもらっていたのだ。それももう30年前に。改めて心の中で先生に感謝した。ただ、お医者さんたちの熱意はすごく伝わってきて、薬剤師ごときの僕など、いずれ出番はなくなるのではないかと思った。そういった意味では、僕は漢方薬局として「いい時代」を生きることが出来たのかもしれない。ただ一人の先生、その前にその先生を紹介してくれた漢方の先輩との、偶然の出会いのおかげで。

白菜

「これ食べてくださーい」といって渡されたから手に取るとずしりと重い。腰に不安がある僕には一瞬不安がよぎる。ただ手渡されたのはただのキャベツだ。農協へ出荷した後、一つ残してくれて、帰り道に寄ってくれる。見た目以上にと言うか想像以上に重たかったので、礼を言った後尋ねてみた。すると5kgと教えてくれた。この文章を読んでくださっている方は、1個5kgの白菜って想像できるだろうか。特に都会の方はどのくらいの単位で白菜を買うのだろう。生長しきった白菜は、小型犬よりはるかに大きくて重い。
 僕がその重量を感じるのは頂いた一瞬だが、農家の方など中腰になってこの重さのものを1日何百個も抱えているのだ。その負担やどのくらいのものか想像がつく。体を変形させるほどの負担なのだ。都会の方は農家の方をそんなに沢山見たことがないから、それも近くで見たことがないから、多くの方が体を変形させているなど想像がつかないかもしれない。しかし実際にはかなりひどく、言い方を変えればかなり醜く変形させて毎日働いているのだ。あえて不遜な言葉を使ったのは、誰も恐らくご自分の変形を受け入れていないと思うからだ。仕方なく、生活の糧を得るためと諦めているだけだ。見掛けもつらいし、実際の痛みも辛い。
 僕達は、お金さえ払えば命を養うものが得られる。たった数百円で多くのものを買うことができる。しかし作っている方々の苦労はかなりのものだ。さすがに現在は多くの機械を駆使して、体を道具のように使う作業は減っては来ているが、それでもわが身を道具にしなければならない場面も多い。農業を支えている人が70歳代でも若い人と言われる世界で、この国で消費する人たちは感謝の気持ちを持って食卓に並ぶ野菜を眺めているだろうか。僕が牛窓に帰ってよかったと思う理由のひとつに、漁師やお百姓と毎日接することができることがある。彼らがどのように働いているかを垣間見る機会が多いのだ。命を養う人たちの生きる姿を目の当たりにできることは、素直な感謝の気持ちを養える。教えられなくても身につく。姑息な行為を無意識のうちにやってしまう未熟さはそうした育ちには似合わない。教えられなくても最低限のモラルは身につく。生かされることへの感謝が沸く土壌があるのだから。
 キャベツを手渡すと女性は又軽トラックで自宅のほうに走り去った。又瀬戸内海を望む岬の畑で巨大な白菜と格闘するのだろう。

戦意喪失

 ティーンエイジャーが幸福を感じるのには、自分の家族の社会的地位が高いことが重要であるようだ。米カリフォルニア大学アーバイン校心理科学教授のCandice Odgers氏らが、約2,200人の英国で生まれた双子を対象に調査した結果、ティーンエイジャーが身体的にも精神的にも健康で、学業成績も良好であるのには、親の職業や学歴、資産よりも社会的地位の高さが強く影響する可能性が示された。18歳のときに家族の社会的地位を高く評価した子どもは、家族の収入や健康状態、十分な栄養、教育レベルとは関係なく、精神的な健康や学業成績が良好であることが分かった。また罪を犯すなど問題を起こす確率は低く、より教育を受けたり、仕事に就いたりする確率は高かった。そのほか、精神面での問題を抱える確率も低かった。
 Odgers氏は「家族が裕福かどうかは、子どもの健康や受けられる教育、そして人生のチャンスに恵まれるかどうかを予測できる因子の一つであることは明らかだ」と指摘。その一方で「今回の調査結果からは、子どもたちのウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態)には、社会階層の中で自分の家族が置かれた地位をどのように見ているのかも重要であることが示された。思春期のときの考え方により、子どもが将来、健康や社会的成功を得られるかどうかを、より正確に予測できる可能性がある」と説明している。
 また、Odgers氏は「思春期の子どもに考え方を変えさせたところで、不平等な社会を克服できるわけではない」と述べる一方で、「社会格差が広がる中、若者が直面する障壁を乗り越えて、彼らが社会で幸せや成功をつかめるように支えるためにも、社会的な要因と個人的な要因の双方に焦点を当てた画期的な解決策を探っていく必要がある」と述べている。
 
 この報告を聞いてさもありなんと胸をなでおろす人と、戦意喪失の人がいるのではないか。いや、そのどちらにも属さないというか、どちらにも転がりそうなまだ希望もあり不安もある中間層も多いのかもしれない。なんとなく、漠然と感じていることを研究結果として学問的に発表されると、問答無用で精神に止めを刺されたようなものだ。
 生まれながらにして、自分が属する階層をあてがわれ、その中でしか生きていけない人たちが今の時代に多く存在する。江戸時代かと言うような光景が固定化されている。懸命に生きても持ち点が少ない人たちに大量得点は訪れない。なんともむなしく歳月が過ぎるだけ。雪だるま式に資産や地位や健康が増え続ける階層は己をますます豊かにしていく。
 「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれない人々をおとしめるためでなく、そういう人々を助けるために使ってください」19年東大入学生に向けられた上野千鶴子のメッセージはますます現代のこの国のエリート達には届かない。この国で最も汚い人間に忖度するような疫人が、戦意喪失の階層に希望など与えられるはずがないし、それ以前に頭の中に存在もしていないのだから。

 

恩恵

 元気いっぱいだった人が何かのトラブルで病的になると、病気慣れした人よりダメージは大きいみたいだ。まして病院に行ってもはっきりした病名を告げられなかったり、出される薬が軒並み不発だと、自分でどんどん落ちていくらしい。今日1週間で半年間の不調を漢方薬で7割治すことが出来た青年は「死ぬかと思っていた」らしい。1週間前に入ってきた時の顔と今日の顔が全く違っていた。漢方薬は病名にこだわらず不調を改善していくことができるから、そのことが役に立てたのだろう。
 そんなことを感じていたらちょうど目を通していた漢方の雑誌にある医者がレポートを寄せていた。漢方薬を扱うお医者さんらしいが、ある時、繊維筋痛症の方が受診してきた。その先生はその病名にこだわらず、患者さんの不快症状に耳を傾けて漢方薬を処方したそうだ。するとその難病が1週間くらいでかなり改善したそうで、数ヵ月後にはほとんど忘れたように生活しだしたらしい。先生が使った処方は確かに繊維筋痛症に投与されるようなものではないが、先生は何かを感じたのだろう。診断や検査結果を重視するお医者さんが、こうした感覚と言うか、伝わってくる雰囲気みたいなものを敢えて重視したことが功を奏したのだろう。となると診断や検査が出来ない僕ら薬剤師でも耳を澄ませば患者さんから伝わってくるものを受け止めることができる。それを薬草に合わせていけば先生と同じようなことができるはずだし、実際に僕も多くの諸先輩方もやってきた。薬剤師が漢方薬を絶えないように守ってきた歴史を考えるとさもありなんと思う。
 薬草とはいえ所詮草でしかないはずなのに、それらの恩恵を目の当たりにできる日々は僕の精神状態を守ってくれているような気がする。

仕業

 欲しくはなかったけれど、隣の古民家を買ったときに、裏の広い土地も一緒に買わされた。山のふもとで、いつ倒れたのか分からない大木が手付かずで横たわっていて、夏などは入っていくのが怖いほど草が伸びる。さすがに年に一度、この時期にはシルバー人材センターに依頼して草を刈ってもらうが、刈ると結構広々としていて、何か使えたらいいのにと思う。150坪程あるからアイデアがわく人なら利用出来るだろう。ただ残念ながら僕は何も思いつかない。今のところ結構なお荷物。
 シルバーの方々が作業が終ったから確認してくれと言ってきたので、一緒にその土地へ行ってみた。すると10箇所くらい大小さまざまのクレーターが出来ていた。去年までは見ていない。誰が何のためにと思うような作られようだったが、シルバーの方曰く「いのししの仕業じゃあ」。そういえば大きさも、深さもいのししが水遊びできるくらいだ。大人もいれば子供もいるだろうから大きさが色々なのもわかる。1月ほど前に、ベトナム人が草むらにいのししがいたのを目撃したが、偶然その時にいのししが山から下りてきていたのではなく、きっといのししにとってはお決まりの、いやお気に入りのリゾート地だったのだ。暗くなると毎晩くらいお忍びでやってきていたのだ。その土地は、ベトナム人が入居しているその古民家からわずか5メートルくらいのところだから、その穴を見たときには一瞬ぞっとした。家族の希望を背負ってやってきている人たちに何かあったら申し訳ない。
 水浴びか、蚤取りか、ミミズを食べるためか分からないが、せっかくのリゾートも人様と隣りあわせでは許可できない。その広い土地を草が生えないように管理するのは経験上難しい。だとすると無粋だがコンクリートか砂利を敷き詰めるのか。「やつらの自由には、させねえ」