動機

 もう何年も僕の薬局では変わった漢方薬のファンがいる。今日も15人分その漢方薬を取りに来てくれたグループがある。統計を取ったことがないから毎年どのくらいの方が利用してくださっているのか正確には分からないが、今年は例年より多いかもしれない。と言うのは毎日、中国の新型コロナウイルスのニュースが流れるから心配な方が多いのだろう。牛窓みたいな田舎に中国からやってくる人はいないから、地元の人は少ないが、それでも接客業の方などは敏感で、職場の注文をまとめて取ってくれたりする。「あの漢方薬を飲んでくれている方でインフルエンザにかかった人はまだいないよな」と娘に尋ねたら、去年一人かかったらしい。それでも案外と軽く治ったみたいで、今年も取りに来てくれている。
 もともとはノロウイルスの患者さんのお世話に使っていた漢方薬だが、よく考えてみれば漢方薬ノロウイルスを特異的にやっつけるはずがない。全てのウイルスに同じように立ち向かうはずだ。となるとインフルエンザなどにかかる前に予防的に飲んでいたらどうなのだろうと考えたのが始まりだ。当初は好奇心の強い方が実験的に飲んでくれていたが、実績を多くの人が体験してくれて、冬になると取りに来てくれるものになった。僕が何か秀でているというものではない。どこの漢方薬局でも用意できるものだが、僕の薬局みたいに患者さんと関係が近いところでないと成立しないもの。漢方薬の効能欄にそんなことは一言も書いていないのだから。「この成分が入っているから、インフルエンザでも予防するはずじゃあ!」で始まったものだ。田舎発ののどかな動機だ。

残念

 急にパトカーのサイレンが後方から聞こえ、何かをマイクで喋りだしたが、安全運転に徹している僕には関係ないから悠々と走っていたら、後方につけられ口調が厳しくなった。その時点で僕かと思ったがまだ余裕はある。何かの間違いと言うか、交通違反でないことには確信を持っていた。
 ところがだ、一方通行違反だった。僕の記憶では違反とされている方向に走っている車はしばしば見ていたから合点がいかない。でも警察官が間違えるはずがない。後で気がついたことだが、200メートルくらいあるその道路の僕が侵入しようとした側30メートルくらいだけが一方通行なのだ。30メートルくらいのところにある四つ角から進入してきた車はどちらに向かって走ってもいい。要は、天満屋ハッピータウンと言う大きなスーパーのために作られたような規則だ。それがあるからさも専用道路みたいな規則が作られている。
 ある女性を、玉野教会から家まで送ったのだが、朝来た道を忠実に帰って行ったら一方通行の中のお家だと思い知らされた。普通なら教えてもらえるところだが、少し会話能力が不完全な方だから僕に教えられなかったのだろう。軽微な違反だからと言って6000円の罰金と1点減点らしい。僕は自分では知らなかったがゴールド免許証?と言うやつらしくて警察官が残念がってくれたが、その価値が何かも知らないからどうでもよかった。警察官が残念がって、僕も残念がったが対象は違う。
 いつもは妻が送り迎えするのだが、今日は疲れていて教会には行けないと言っていた。そこで女性の送迎を頼まれたのだが、二つ返事で引き受けて、いつもより早く家を出た。岡山市で女性を乗せて、児島湖あたりを玉野に向かって走っているときに、教会で見かけたベトナム人の若い男性がバス停に立っているのを見つけた。しばらく行き過ぎたが、目撃したのに乗せないことに罪悪感を覚えて引き返した。
 教会に行く前にパソコンを開き、二人の新しい方から相談メールが入っているのに気がついていた。だからミサの後急いで帰って返信する予定だった。その女性を送ってくれるもう一人の方が教会に来られているのに気がついたときには頼んでみようかなと一瞬考えたが、それは僕の都合を優先した判断だから許されないだろうと思った。
 頼まれれば原則として応えられるように努力する。どうせ何かをするなら人の役に立つようにする。人に尽くして無形の喜びを頂く。そうありたいと務めているところにサイレンの音。僕の努力を萎えさせるが如く鳴り響いた音が僕の「残念」

手駒

 毎日新聞の朝刊に小さく取り上げられていたが、山本太郎東京都知事選挙に、野党統一候補として担ごうとしているらしい。僕はこれはなしだと思う。山本太郎が実現しようとしていることは、一つの自治体で出来ることではない。汚池に対抗するというだけで担ぐにはもったいなさ過ぎる。それにしても他の候補を探す能力がないのには落胆する。立派な人はいっぱいいるだろう。そして見つけたら、野党が保身から脱却することだ。あの汚い痔見ん党を見れば、どんな汚い手段を使っても政権を取ろうとしているではないか。汚部なんか法律は勿論憲法にまで違反しているではないか。自分のパトロンを喜ばし、自分の地位を手に入れるには、ありとあらゆる禁じ手を使う。
 例え汚池を破り知事になっても、東京をどれだけ変えなければならないのだ。現在の東京で困っていることはあるの?山本太郎でないとできないことってあるの?あれだけ裕福な大都市だったら、だれだって運営できるのではないの?汚池が何かやったの?何もやらなくても日は経っているのではないの?そんなところに山本太郎を閉じ込めてはいけない。
 余りにも安易な野党を見て「だめだこりゃあ」状態だが、起死回生の手駒として山本太郎がいてくれることは唯一の救だ。

栄耀栄華

 あのしわがれ声は、唄い過ぎか、酒か、バコか。あるいはその全てか。
 近畿地方からもう10年近く漢方薬などを依頼してくださる女性がいる。大きな声で話し陽気で気風がいい。僕は気性が合うと思うが、相手によっては圧迫感があるかもしれない。主に漁船相手の鉄工所をやっていた祖父の関係で漁師に囲まれて育ったから、一見男勝りの女性でも好感をもってしまう。会ったことはないが、珍しい経歴が、電話口から伝わってくる。恐らく僕の人生でその肩書きはその方だけだろう。
 さすがに今は引退しているから、素のまま僕に接しているのだろうが、恐らく現役時代は芸や作法で身を固め、はっと驚くような魅力で男どもをひきつけていたのだろう。恐らくその魅力に惹かれた人たちだろうが、お医者さんや病院の名前もしばしば口から飛び出し、時には遠来の客と思しき地名や人名も出てくる。いまだ患者としての付き合いを律儀にやっているみたいだが、何故かこの数年はもっぱら僕を頼ってくれる。80歳も折り返しを過ぎれば体調不良は後を絶たないから、そして漢方薬が今のところ高確率でお役に立っているからだろうが、僕でいいのと言うくらい頼ってくれる。
 テレビや映画でしか見たことがない「芸者」の方との、漢方薬を介しての相談電話がもっぱらだが、時に出てくる言葉にその世界のほんの一部を知る。いろいろな人が、色々な人生を歩んで、そして静かに去っていく。どんなに栄耀栄華を極めてもいつかはそっと消えていく。
 

 

衝撃的

 思わず聞き返した「ご本人がそう言われたの?」と。
 何故ならもう100才が近いはずだから、本人が御自分でそう言われた事が俄かには信じがたかったのだ。お世話をしている人が当然気を使ってそう言ったのだと思った。
 この方はもう10数年、あるサプリを飲んでいる。僕の薬局でのサプリはとても珍しいのだが、発売当時は医薬品の許可を得るほどその会社に財力がなかったから当分健康食品で売られていた。僕らは血管系を守るものとして重宝していたし、痴呆に効果があることも大学の大規模調査で明らかになっていた。そこで珍しく僕もサプリメントを採用したのだけれど、時代の要求もあって医薬品の許可が出て今では病院でも使われている。
 当時から高齢と言うのが頭にあったが、お嬢さんがそのサプリをとりに来るたびに、「もう何歳?」「今でも元気いっぱい」などの会話が繰り返されるだけだった。それこそどこも不調がないのだ。健康で長生きを地で行っているようなものだ。
 昨日も全くその短い会話が繰り返されるだけなはずだったのだが、本人が「薬が無くなりそうだから買ってきて」と言われたらしいことが衝撃的だった。よくあるのは、親の容態を心配して子供が飲ませるパターンだが、100が来たかもしれない人が自分で薬を管理していることが信じられなかった。もうここまで来ると感動ものだ。不思議だったのか、感動が激しかったのか数回聞き返したと思う。丁度100才で、来月101歳になるらしいが、さすがに足腰は衰えているけれどそれ以外は悪くなく、病院の薬も飲んでいないらしい。もっとも100歳まで頭も元気な人に、何の薬が必要だろう。世話をする医者や医療従事者などよりよほど元気で理にかなった生活をしてきているはずだから。むしろ無用な介入が傷つけてしまいそうだ。
 僕が勧めたサプリが功を奏したのか、本来の生命力かなど問題ではない。目の当たりにした事実がいかにも衝撃的だったのだ。それが、ほんの小さなドラマでも。
 

縮図

 昨夜、ニュースを見ようとしてテレビをつけたら、NHKのプロフェッショナル?と言うような番組をやっていた。途中から見たわけだが、その冒頭「幼い時から人間関係を築くのが苦手」と言うナレーションが耳に入った。この手の悩みを多く相談されるので、すぐに興味が湧き画面に見入った。取材を受けているのは珍獣を専門にする獣医師だった。畜産は別として、普通は犬や猫などを主流に営業するのだろうが、この獣医は珍獣専門だ。蛇や兎やカメレオン、家畜以外なら何でも診る。幼い時からそうした動物が友達だったみたいだ。
 志や現実の壁など、当然面白おかしく演出されているのだが、彼が言った一言がすごく耳に残った。なるほどなあと感心した。それはペットを通してわれわれ人間に宿命を教え、又それが救いになるものだった。
「動物の命は、われわれ人間にとっては縮図なのです」短い歳月のうちに誕生から成長、老いから死への過程をすべて見ることができるからだろう。老いを忌み嫌い、死を恐れることの不条理さを戒める言葉として発せられたのではなく、気負いのない、何気なく発せられたものだ。その何気ない言葉を僕はキャッチしていた。爬虫類などと遭遇すると後ずさりしてしまう僕が、自然の中で懸命に命をつなぐ生きもの達を愛する人の言葉に気付きを与えられるのだから不思議なものだ。いやいや真反対だから、何気ない言葉を拾うことが出来たのだろうか。「誕生したら必ず死ぬのが当たり前ですから」なるほど、その当たり前のことに抗うとしたらこれは相当苦しいだろう。抗わなければならないほどに、失うもことが怖いほどに持たなければよい。・
 

白川郷

 今朝のニュースで偶然かもしれないが、白川郷の風景が2つの局で映し出された。どちらも内容はほぼ同じで、定番の幻想的な冬景色とは程遠いものだった。夏に来ても同じだという観光客のコメントを流していた。持参した写真に写る雪景色の美しさと、目の前の光景を比べ残念がっていた。
 実は僕ももう40年近く前に一度訪ねたことがある。高山に就職した先輩を時々訪ねたが、一度だけ観光もどきをやってみたのだろう。会ってタバコを吸いくだらないおしゃべりをしていればいくらでも時間がたった当時では、珍しいことだと思う。僕らは何かを見るために、特に景色を楽しむために行動を取ったことは学生時代一度もない。その習性はそれ以前からだったような気もするし、その後も延々として僕の中ではかたくなに続いている。
 そんな僕だから、白川郷の記憶はほとんどない。季節も分からない。唯一の記憶は、何気なく入った合掌造りの家の片隅で、小学生と思しき少年が勉強していたのだ。今懸命に思い出そうとしてそんなことはありえないだろうと思う気持ちもあるが、確かにあの時は突然日常生活が目の前に現れたのだ。まさに毎日繰り返されている日常の中に、それこそ土足で踏み込んだのだ。僕達が無断でそんなことをするはずがないから、招き入れる看板か知らせがあり自然に入って行ったのだと思う。勿論お金も払ってはいないだろう。お金を払ってまで何かを覗くようなことは恐らく僕も先輩二人も好きではないから。だとしたら、合掌造りの、それも現役で使っている家を開放していたのか。わからない、地域振興のためにそこまでするのか。
 高山に暮らす先輩からの年賀状に、往来で轢かれたねずみの詩が書かれていた。また外国人で溢れる高山の町を歌にして歌っているそうだ。白川郷に一緒に行った、今は岐阜市に住んでいるもう一人の先輩は、年賀状に「日本は一体どこに向かっていくのでしょう。〇〇国の一部になるのでしょうか・・・・・・」と書いていた。人の目に触れるから国の名前を〇〇にしたのか、複数の国を思い描いていたのか分からないが、かつて白川郷を訪れた3人が奇しくも同じようなことを正月に考えていたことになる。
 3人が3人同じ薬科大学を出ていても、生き方は結構異なる。ただ今だ同じような価値観で生きているのだろうと思う。かつて共有した価値観、一緒に育てた価値観をそれなりに全うできているとしたら、僕らの出会いは恵みだったと思う。結果も過程も飲み込んでしまうくらいのものだったのだから。