白菜

「これ食べてくださーい」といって渡されたから手に取るとずしりと重い。腰に不安がある僕には一瞬不安がよぎる。ただ手渡されたのはただのキャベツだ。農協へ出荷した後、一つ残してくれて、帰り道に寄ってくれる。見た目以上にと言うか想像以上に重たかったので、礼を言った後尋ねてみた。すると5kgと教えてくれた。この文章を読んでくださっている方は、1個5kgの白菜って想像できるだろうか。特に都会の方はどのくらいの単位で白菜を買うのだろう。生長しきった白菜は、小型犬よりはるかに大きくて重い。
 僕がその重量を感じるのは頂いた一瞬だが、農家の方など中腰になってこの重さのものを1日何百個も抱えているのだ。その負担やどのくらいのものか想像がつく。体を変形させるほどの負担なのだ。都会の方は農家の方をそんなに沢山見たことがないから、それも近くで見たことがないから、多くの方が体を変形させているなど想像がつかないかもしれない。しかし実際にはかなりひどく、言い方を変えればかなり醜く変形させて毎日働いているのだ。あえて不遜な言葉を使ったのは、誰も恐らくご自分の変形を受け入れていないと思うからだ。仕方なく、生活の糧を得るためと諦めているだけだ。見掛けもつらいし、実際の痛みも辛い。
 僕達は、お金さえ払えば命を養うものが得られる。たった数百円で多くのものを買うことができる。しかし作っている方々の苦労はかなりのものだ。さすがに現在は多くの機械を駆使して、体を道具のように使う作業は減っては来ているが、それでもわが身を道具にしなければならない場面も多い。農業を支えている人が70歳代でも若い人と言われる世界で、この国で消費する人たちは感謝の気持ちを持って食卓に並ぶ野菜を眺めているだろうか。僕が牛窓に帰ってよかったと思う理由のひとつに、漁師やお百姓と毎日接することができることがある。彼らがどのように働いているかを垣間見る機会が多いのだ。命を養う人たちの生きる姿を目の当たりにできることは、素直な感謝の気持ちを養える。教えられなくても身につく。姑息な行為を無意識のうちにやってしまう未熟さはそうした育ちには似合わない。教えられなくても最低限のモラルは身につく。生かされることへの感謝が沸く土壌があるのだから。
 キャベツを手渡すと女性は又軽トラックで自宅のほうに走り去った。又瀬戸内海を望む岬の畑で巨大な白菜と格闘するのだろう。