上品

 学歴も経済力も顔立ちも決定的な要素ではない。備わっていることに越したことはないが、それらで代替できるものではない。
 今日、かの国の女性10人を神戸に連れて行った。この2年間の失敗経験を生かすべく、神戸在住の方に応援を頼んだ。人でごった返す元町商店街を、前後に挟んで、勝手な行動を押さえ込もうという魂胆だ。案の定これがうまくいって、あの商店街を走り回ったり、派出所を尋ねたりする事がなかった。90点の出来だと言える。
 途中でも、別れる時でも、旨くいったことを感謝した。今回日本語が満足に出来る人が1人もいないから、かなり緊張して出発したのだが、助っ人の女性と会えてからは一気に緊張感が取れた。
 大学で外国語を教えるその女性にとっても、かの国の言葉はまるで分からない。お互いまるで分からないはずなのに、かの国の女性たちは臆することなく話しかける。それどころかあつかましくも彼女にカメラマンを頼んだり、腕を組んだりしていた。僕の「友達」と紹介した女性がよほど気に入ったみたいで、帰ってから「また会いたい」と要望された。牛窓に帰ってから通訳を介して何故会いたいか尋ねてみた。少ない語彙の中から探したのは「やさしい」だった。ただそれは当然過ぎて、一番彼女達の心を表現する言葉ではないだろうなと思った。そこで僕が一番彼女を表現するためにあたっているだろう言葉を伝えた。それが「上品」なのだ。その言葉を聞いた事がないみたいでスマホで意味を調べていた。すると数人が同時にその意味を見つけたらしくて、「ソウ ソウ」「オトウサン ソレデス」と言った。
 今回の小旅行も最大級のお礼を言われたが、その中にこの触れ合いが入っていることは確かだ。「クニニカエルマデ、マタ、〇〇サンニアイタイ」と要望されたから。以前京都を案内してもらっていた女性にも、そうした要望があった。そこでドッキリを仕掛けて「マタ アイタイ」を実現した。今回の方にも是非そうした機会を作りたいが、どうしてこんなに仲良くなれるのだろう。タイプは違うが、二人とも日本女性が失いつつある「上品さ」を持っているからだろうか。

 

本末転倒

 なんていう荒涼とした風景なのだろう。冬で草が枯れて、そう見えるだけではない。枯れてもなお立っている草の背丈は僕を優に越えている。恐らく伸び放題で、嘗て米を作っていた田んぼが全て耕作放棄地になっているのだろう。30年前には少なくとも10面以上の連なった田んぼで全て米を作っていた。夏の墓参りには青々としていて、田んぼの上にある15メートル四方の池もそれらを潤すのに十分の水を溜めていた。昭和の初期、幼かった母が泳いでいたというその池は今、ほんの少しの濁った水を溜め、倒木と枯葉を幾重にもをまとい生き物も住むことは難しそうだった。
 この10年くらい、思いついたら訪ねるくらいの母方の墓は、里と山との丁度境目にある。農道を車で入っていってもUターンに困りそうな場所だ。その道を県道からお墓まで上るのに100メートルくらい歩かなければならない。その間、両側は草茫々で夏なら蛇が出てきそうで通りたくない。30年前なら全ての田んぼが稲を作っていた。10年前でもある程度は作られていたはずだ。そうでないと今日みたいに強烈な印象で田んぼが無くなった事に気がつかない筈だから。10年前には叔母を、この数年は母を見舞うために毎週のように通った道の上だが、県道を走っているだけでは気がつかない。一歩足を踏み入れればこの有様だ。耕されている田んぼや畑よりずっと多いように見える。農業を生活が出来る産業に育て、荒地をもう一度農地に戻さないと食料自給率も上がらないし、治水も怪しくなる。アメリカに言われ高額なミサイルなどを買うお金で十分その為のお金は出る。国土を荒らしてまでミサイルを持つ意味があるのか。順番が違う。本末転倒だ。
 玉野市から牛窓に帰り、今度は我が家の墓参りに行った。牛窓は畑作が盛んだから、玉野ほどでもないが、やはりあちこちに手がつけられないほどの荒地が存在している。まだまだ田舎の牛窓だから人の情は十分残っているが、世をリードするエリート達の心と置き去りにされる田舎の田畑の両方の荒れ方に心を痛める。

 

放置自転車

 大晦日が日曜日だったため、僕には珍しい4連休だ。数日前からこの日曜日にやるべきことを決めていた。普段の業務ではなかなかその気になれない雑多な薬局業務だ。ところが朝起きてから集中的に取り組んだら2時間くらいですんでしまった。そのせいでその後の時間何もすることがなくなってしまった。そのつらさは想像以上だった。何もすることがないことに慣れていないから、時間のもてあましようが半端ない。専門の雑誌に目を通して3冊読みきることが出来たが、集中力はもうそれ以上続かない。正月の2日に神戸にかの国の女性を9人連れて行くから体力温存にも今日をとっていたのだが、なんだか余計疲れて今栄養剤を飲んだ。昨日までの疲れが出たとは思えない。昨日より疲れたというほうが的を射ているよいうに思う。緊張感がないと言うことは、こんなに空虚で疲れるものなのだろうか。僕にはこんな過ごし方は向いていない。別に体力があるわけではないが、40年続けてきた生活習慣は、それなりに僕の健康を保っていたのだろう。平日は一所懸命働き、日曜日は勉強会かかの国の人たちの接待。それで体力も気力も充実していた。根っからの貧乏性ではない。気力が充実して生き急ぐタイプでもない。ほとんど標準に近いのに、休み慣れていないことだけは確かだ。
 胃と大腸の内視鏡検査を受けに行った時、ベテラン看護師さんが「男性は今日みたいにゆっくり休むことが苦手な人が多いです。検査の日でもイライラしています。1年に1度くらい御自分の身体のために仕事から離れてもいいのではないですか」と言った。まるで一般論のような表現を使っていたが、恐らく僕を見てそう助言してくれたのだと思う。
 色あせた日常に未練さえも色あせた。彩りを忘れた絵画のように、放置自転車の荷台で埃を被る。

未来学者

 教育テレビとは言わずに、今はEテレと言うらしいが、結構良い番組を作る。歳のせいか、民放のくだらないものばかりが並んだ時に、そのチャンネルを選んだりする。
 昨日もまさにそうした消極的な選択で何気なく見ていた。タイトルがAIと人間みたいな感じで最初から縁遠い番組だと思っていたが、見始めてつい夢中になってしまった。難しい内容でほとんど付いてはいけなかったが、何となく理解できた部分もあった。
 未来学者などと言う呼称を知らなかったが、正に未来学者のレイ・カーツワイルと言う人が、AIと人間について話していたが、その中で興味を引いた部分、と言うか少しは分かる部分があった。それは、ガンとエイズは防げないと言う内容だ。わずか数百年前の人間の寿命は30歳代?だったが今はそれが相当伸びた。ただそんな中でもガンやエイズのように免疫にかかわる病気は治す事が出来ないという内容だった。言い換えれば、年とともに免疫が弱くなるからガンもエイズも治すことが出来ないというものだ。免疫はある年齢までしか保証されていないってことだ。未来学者がひどく消極的なことを言うなと思ったが、優れた思考の末に言っている言葉で僕ら凡人が違和感を持とうが、それを翻すことは出来ない。

傾向

 同居しているかの国の女性の1人が言っていたことがある。彼女の村では、若い女性に親類中がよってたかって外国人と結婚してくれと言うらしい。彼女も何度も言われてきたらしい。実際に外国の男性と結婚した人が多いらしくて、その家庭は一躍裕福になる。それが目的なのだが、露骨と言うべきか根性があるというべきか、僕ら現代を生きる日本人には到底理解できない。かの国は日本に比べて50年遅れているとしばしば口に出すが、50年前の日本の女性もそうした野望を持っていたのだろうか。そうは感じなかったが。
 今日あるかの国の若い女性がお別れの挨拶にやっていた。介護施設で働いていたのだが、腰を痛めて退職する。一生のお別れかと思ったら一度自国に帰ってまたやってくるそうだ。その理由は日本に彼氏が出来たからと言う。そう言えば随分とかの国の女性と日本の男性の結婚が増えた。その逆はあまり耳にしないが、日本の男性に嫁ぐかの国の女性は多い。僕も同居しているからわかるが、まじめな人はとてもまじめで、嘗て日本人女性が持っていたような雰囲気を持っている。貧しい国から豊かな国へ、後進国から先進国にやってきたのだから、それだけでもハンディーを背負っているように見える。そうした姿に日本の男性が優越感を持って自信が出るのだろうか。同じ日本人同士よりハードルが低いのではないだろうか。日本人同士なら評価はガラス張りだが、言葉も完全には理解できない環境では、隠すことが出来るものも多い。自分の長所を強調し、短所は言葉の壁を理由にしまっておける。
 したたかな女性と心優しい男性のカップルがこれからますます増えていくのではないかと思う。かつてはアメリカ、その後韓国中国、そして当分日本。自国が発展し、経済に吸い寄せられる流れが逆転すればなくなるかもしれないが、当分この傾向は続くだろう。日本では学歴や経済力だけでなく、人間力においても男性より勝る女性が増えてきた。結婚相手には恐れ多い日本人女性が増えてきた。そのことがこの傾向をつくり出したのではないかと、今日の女性の別れの挨拶を聞いていて思った。いいとか悪いとかでなく雨が降れば自ずと水の流れが出来るようなものだ。

現状維持

 僕のブログは、のブログと言う場所を利用させてもらっている。長い間、ひたすら文章を書いてきて載せて貰っていたのだが、これが来月から無くなる。よくは知らないが、のブログはNTTがやっているものだと思う。折角大企業がやっているのにもったいないが、企業にとって利益がなくなれば廃止するのも分かる。僕は一切他のブログを見たことが無いので、今回初めてNTTみたいなものがないかなと探した。NTTみたいと言うのは、文章だけが載っているものと言う意味だ。僕は機械に全く疎いから、楽しげなものには出来ない。それと本来、僕の漢方薬を飲んでくださる人に、どんな人間が作っているかを知ってほしかっただけで始めたものだから、受ける必要は全く無く、田舎薬剤師が、薬を作る一瞬だけまじめな人間であることが分かってくれればいいのだ。その他の時間の僕はと言うと別人格で、懸命に自分を緊張から解放するように努めている。難しい話はなるべくせず、避けられない難しい話は冗談の塩漬けにする。職業柄か本来の自分か今となっては分からないが、多くの人に笑顔になって欲しくて、笑顔を忘れて笑ってもらえるように頑張る自分もいる。
 昨夜から、新しいブログにも同じ文章を載せている。旨くできているのかどうかわからない。変るって事がこんなに負担になったのはいつからだろう。些細なことでも現状維持を望んでしまう。どんな変化も止めることが出来ないことはわかっているのに。
 

たしなみ

 「なんと、洗練された人たちなのだろう。粗野で品のない私たちの国に比べ、この国にはちゃんと文明が根付いている」 スイスに住む実業家ジャクリーン・フマガリさん(70)が初めて日本を訪れた時の感想だ。15年前だった。フランスに生まれ、日本のブランド衣料を欧州で扱うビジネスを手がけてきた。夫はかつてベネチア国際映画祭の運営にもかかわっていた。世界各地に足を運び、多くの国と人を知っている。そんな彼女が十数回目の来日をした今月、残念そうな口調で語り始めた。
「道でぶつかりそうになっても、『ごめんなさい』とも言わずに行ってしまう人が多くなったわね」
「白いつえをついた人が電車に乗ってきても、子どもたちが大きな顔で座っている。大人はみんなスマートフォンに見入って、だれも気づかず、 注意もしない。なぜ?」
 かつては体験しなかったこと、目にしなかった光景だという。「きっと日本はだんだんヨーロッパのようになりつつあるのね」と嘆いた。思いやりとたしなみ、他人への関心や気づかいにあふれていたころとの差は大きいようだ。 ジャクリーンさんの言葉を借りれば、築き上げた文明がほころびつつあるのかもしれない。

 今の時代を嘆くのに、何かの言葉が足りないと文章を書くたびに思っていた。恐らくそれはひとつではなく、多くの言葉がまだ隠れているのだろう。今朝の毎日新聞の一部を切り取った文章が上のものだが、その中で使われている「たしなみ」と言う言葉が心にひっかかった。そもそも、その言葉を使えるほどのたしなみもないから、縁遠い言葉ではあるのだが、結構多くの日本人が失ったものではないかとこの記事を読んでいて思った。年配者などでは当然身につけているだろうと嘗てなら思えていたものを、現在の年配者は持ち合わせていない。そこからスライドしてどの世代でも同じことが言える。嘗ての50代なら、嘗ての30代ならと言えていたものが今は喪失されている。お金や数字で表すことが出来ないから漠然としたものになってしまうが、その損失は計り知れないものがあると思う。気持ちよく生活できるというのは、人生でかなりの価値を持つ。ひょっとしたらそれ以上の価値はないかもしれない。たしなみを忘れた肉体が街を彷徨している姿を想像したらいい。スマートフォンを持ったトンビだ。