危惧

 盛り上がったのは、福山から尾道に向かう車中だった。さっき1時間を残して会場から抜け出たのに、印象はやはり全員強烈だったのだろう、それぞれが歌舞伎役者の言い回しや、動きを真似した。これから数日この真似で盛り上がるのではないか。そう言えば最近漫才で歌舞伎の真似をして多いに受けているコンビがある。あれを素人が車の中でやっているようなものだ。  よその工場の人間だが、縁あって知り合った通訳がこの10月に3年間の契約を終えて帰国する。彼女の最後の希望が歌舞伎を見ることだった。京都や大阪に行かなくても観れるチャンスを探っていたら、今日福山で公演されることを数ヶ月前に知った。チケットを買って待つこと数ヶ月、やっと約束を果たすことが出来た。ただ、歌舞伎と言うことで敷居は相当高かった。  歌舞伎はその姿かたちは勿論のこと、台詞の言い回しなどが特徴だから、今日同行する人間は日本語が堪能なのを条件に選んだ。台詞を理解できないようではもったいない。ところがいざ始まってみると、日本人でも何を喋っているのかわからない。一番安い3階席だから声が届きにくかったのもあるかもしれないが、それにしても何を言っているのかほとんど分からなかった。日本人の僕が分からないのだから、かの国の女性達がわかるはずがない。二人は看護師、二人は通訳で、全員が日本語2級の資格を持っていて、ほぼ完璧に近いくらいの会話力を持っている。ところが早々に彼女たちは耳からの理解を諦めて、視覚で楽しんでいた。今日は日本語を優先して皆を連れてきたことを告げると、ひとりの看護師が「日本語が出来るかどうか関係ない。誰でも一緒、分からない」と言った。正にそのとおりで、来日10年でも昨日来日した人でも関係ない。  そう言えば、リーデンローズの会場に入った時、受付の奥で演目の解説書が1300円で、そして音声ガイダンスが700円の使用料と1000円の保証つきで貸し出されていた。会場で周りの人たちが一様に耳栓をしていたのでおかしいと思っていたら、日本人でも僕と同じように役者が何をいっているか聞き取れないから解説書を読んだり、音声ガイダンスを利用するのだ。入場料に単純計算で3000円上乗せすることになる。そこまでして楽しむつもりはないので独特の言い回しや振りを楽しんだ。  ただ、安心したことがある。ひとりの看護師が笑いながら僕にジェスチャーで、周りの観客を指差し「寝ている」「寝ている」と教えてくれた。見ると沢山の人がパンフレットを膝の上に広げ、耳栓を耳に当てたまま眠り込んでいた。僕らのいる一番安い3階席は半分くらいの人が寝ていた。恐らく本当のファンではなく「1度見ておこう」派なのだろう、僕らと同じように。朝の心配は危惧に終わった。歌舞伎でもほとんど敷居はなく、バリアフリーだった。