落し物

 今朝の毎日新聞で読んだ方もおられると思うが、遺骨の落し物が多いことに驚いた。どのタイミングで落とすのか、どうしたら落とせるのかと考えた。そのうち意図的ではないのかと思いついたら正にそうだった。と言うのは落とし物の数が多すぎるのだ。よほどの慌て者でないと、そしてひとりで行動していないとあんな物、落としたり忘れたり出来るものではない。  それが証拠に、落とした場所が遺骨にとって都合がよい。多くがお寺の前だったりする。結局は役所に引き取られ無縁仏でまつられるのだそうだが、所詮死者の姥捨てだ。生きて施設に捨てられ、死んで焼き場に捨てられる。  ただし、その原因の多くは貧困だと思う。墓地代が高すぎるのだ。所得格差が広がって、嘗てなら想像できないようなことを仕方なく選択しなければならい層が生まれつつあるってことだ。恐らく誰もが望んでしたことではない。出来ないからやむを得ず役所に押し付けたのだ。道徳でこの問題を語るのには無理がある。いくら合理主義がはびこってもまだまだ日本人は死者に対しては敬虔だ。止むに止まれずというのが本当だろう。それが証拠に3割近くの人が落し物を受け取りに来ている。  道徳が機能するのは、ほとんどの人が同じように豊かか、ほとんどの人が同じように貧しいかだろう。階層が出来上がれば道徳は支配の手段になり富める者が貧しいものに押し付けるルールになる。それを覆すにはそれ相当の力が要るから、持てざる者は禁じ手を使う。総じてその禁じては暴力となり、これまた新たなルールの鎖につながれる。  時代の先駆者達は遺骨を捨てるという禁じ手を編み出した。静かな禁じ手だが、これは始まりに過ぎない。やがてもっともっと大切なものを捨て始める。皆が平等に豊かにならない限り。