帰国

 なんて巡り合わせだろう。こんなこともあるのだ。  3ヶ月の応援で来日している人たちが帰国するのに1ヶ月を切った。そろそろ帰国モードになってきたのか、家族や知り合いの病気の相談が頻繁になってきた。今日も5人の相談を受けたが、その中の1人の相談で、驚きの言葉が飛び出した。  御主人の母親だから姑と言うことになる。その姑が腕がしびれて時に麻痺するという。かの国の病院で変形性脊椎症と診断されて痛み止めを飲んでいるという。背中の痛む場所も教えてくれた。勿論通訳を介しての話だが、僕には合点がいかなかった。症状からして背中ではなく首が原因だと思ったのだ。便利なもので、僕の目の前で携帯電話をさわり始めたと思ったら、やはり首の病気と診断されていると返事があった。頚椎症は難しいが、日本の薬にとても期待しているので、漢方薬をことづけることにした。  その時にまず当然義母の歳を聞いた。すると66歳だという。そして頚椎症になるには原因があるはずだから「若いときに重労働か、事故にあった?」と尋ねた。するととても珍しい答えが瞬時に帰って来た。「戦争に行っていた」と。ほとんど僕と同じくらいの年齢で戦争に行っていたとなるとベトナム戦争だ。そこで僕もすぐに尋ねた。「お母さんって、べトコン?」と。すると日本語がほとんど分からないその女性がすぐに頷いた。僕は信じられなかったので何度も確かめたが、何度も頷く。そして姑の御主人もべトコンだったと教えてくれた。  正に同時代を生きていた人、そして当時の学生ならごく普通に参加したベトナム反戦と、当事者のべとコンがその瞬間につながったのだ。向こうは命がけ、こちらは学生のお遊び程度のパフォーマンスではあったが、当時の若者同士ががつながった。僕はなんだか随分と感動してその女性の手を握ってよく日本に来てくれたねとお礼を言った。向こうは何故僕がこんなに感動しているのか分からなかったみたいで目をパチパチさせていたが、そのうち通訳が僕の感動の理由を伝えてくれると、向こうもずいぶんと笑顔になって強く手を握り返してくれた。  時代がかの国と日本、そして僕を近づけてくれた。随分と世の中は変わるものだ。サイゴンが陥落したときに、僕は分析化学の教室にいて、クリスチャンの教授や共産党助教授や仲間達とテレビを見ていた。40年前の教室の様子をはっきりと覚えている。いつかベトコンの子供達と知り合えることが出来るなんて夢にも思わなかった。頭の何処にこんなことが記憶されていたのかしらないが、40年間開封しなかった記憶が一瞬にしてよみがえった。無味乾燥した青春だったが、他の学生達と同じように、時代に正面から立ち向かってもいた。