逆転優勝

 逆転優勝した内村に向かってどこかの記者が「審査員に好かれているのではないか?」要は八百長と言うことだろうが、と質問した時に、2位に終わったウクライナの選手が、どこにでもありそうな受け狙いの質問をいさめた。その時、恐らく同じ記者席にいた人たちが拍手を送った。  僕はその場面を見て人間として大きな差を感じた。それは何年も過酷な訓練に耐えて試合に臨んでいる人間と、何の努力もなしに、舌先三寸、いやペン先三寸で生きてきた人間との差だ。人間業とは思えないパフォーマンスをやってのける人たちに向かって、ごくごく普通に大学に行き、ごくごく普通に就職した人間が、対等に向かい合えるはずがない。それをアホコミと言う職業ゆえに相対する事が出来るだけなのに、こともあろうにあたかもひいきで金メダルを取ったかのように偉業を揶揄する。こんな低俗な人間がマイクを握り、読み物を書く。聞かされ、読まされるほうはたまったものではない。こんな不快な奴が電波を使うことが許されるのだろうか。  それに比べて、ウクライナの若い選手の正義感はどうだ。同じように肉体の限界に挑んだがゆえに出てくる言葉に世界中が共感したのではないか。僕は、スポーツマンのほうがはるかに正義感が強いことに大きな懸念を抱いた。このような低俗な人間が、低俗な趣味の代弁者としてメディアの手先になっている。恐らく金をはじめとする不純な動機でつまらないものを書いているのだろう。日本の滅ディアも同じだ。気持ち悪いくらい権力に擦り寄り、腰巾着として生きていくことが出来る人間の就職先が滅ディアだ。  貧民窟と隣り合わせの宴。貧しき知性と隣り合わせの宴でもある。